見出し画像

断片的なものの社会学  岸政彦  朝日出版社


息子「次はこの本、どう? ちょっと内向きの本が続いたから、今度は外向きの本がいいかなと」
私「どんな本?」
息子「エッセーの皮を被った社会学、または社会学の皮を被ったエッセー」
私「ふむ」
息子「自分が見聞きしたことが、そのまま書いてある。自分の想いとか入れずに」
私「客観的記述っていうこと?」
息子「客観的っていうか社会学的」
私「ふむむ」

「断片的なものの社会学」の本を手に取った。コシマキに書いてある短文レビューが目に入る。「この本は何もおしえてはくれない」。はあ、さよですか。

 椎名誠は本のコシマキが大嫌いである。きっと椎名がコシマキを見るときの目は俵藤太がムカデを見るときの目と同じなのであろう。椎名がコシマキで気に入らないのは、第1に、本づくりに携わった文章家、画家、装丁家、編集者などとはかかわりない出版社の営業担当者がひたすら本を売るという目的のために取り付けているものであること、そして第2は、コシマキがあるためにせっかくの装丁家の作品の3分の1とか2分1とかが覆い隠されてしまうことである。

 椎名は本を買ったらすぐにコシマキをはずしてしまえ、と言う。無慈悲に腰巻をはぎ取って「あ~れ~お代官様、ご無体な、ひいい」と絹を裂くような悲鳴を本にあげさせたいっていうことなんだろう。

 「断片的なものの社会学」のコシマキにはレビューのほかにも、大きく朱書されているものがある。「紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞!」。

 なるほどお、そりゃ、読んでみたくなるよね。息子がどういうことでこの本を買ったのかは聞いていないが、この朱書がなければ私が息子経由でこの本を読むこともなかったのかもしれず。そう思うと腰巻もいいんじゃないかい。ということで、本を読むときに傷まないよう腰巻ごと透明ブックカバーを付けた。

 ところで、社会学って何だろう。確かに大学の教養学部のときに社会学の授業は受けた。しかし私が覚えているのは、4単位だったこと、退屈だったこと、そしてデュルケムという社会学者の名前だけである。あとは一切忘れた。

 ウィキペディアで社会学を調べてみる。「社会学(しゃかいがく、仏: sociologie)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である 。その研究対象は、行為、行動、相互作用といった微視的レベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動(社会変動)など巨視的レベルに及ぶものまでさまざまである。」

 なにやら難しいので、簡略化して理解することにする。つまり、人間を取り扱うのだが、個人をそれぞれとして取り扱うのではなく複数とりまとめて取り扱うっていうことでOK? そして、この本を読み始めた。


★人生は、断片的なものが集まってできている

 岸の社会学者としての手法は、一人ひとりに直接会って話を聞くというものである。1時間とか2時間とか、話を聞く。しかしたったこれだけの時間なのだから、そこで得たものは相手の断片にすぎない。

 社会学が学問である以上、何らかの体系づけ、系統付け、分類は必要になる。そうでなければ学問というより、単なる雑多箱であろう。しかし、岸はこう言うのだ。

 「こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。」

 そして言う。「社会学としての仕事を離れて、聞き取り調査で得られた断片的な出会いの断片的な語りそのもの、全体化も一般化もできないような人生の破片に、強く惹かれるときがある。」

 なるほど、それでこの本、「断片的なものの社会学」を書いたのか。体系化、構造化できない断片は、どこかに嵌めこもうとひねくり回すことなく、断片のままにしておくっていうことだね。息子が「自分が見聞きしたことが、そのまま書いてある。」って言ったのはこういう意味だったのかと納得する。しかし、これ、社会学者としてはかなりのカミング・アウトではなかろうか。


★誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない

岸は、自分が作った事例を提示する。
 
 ある若い夫婦がいて、夫の提案で旅行に行くことになる。この妻は心配性で、家を留守にしていることを空き巣狙いなど他人に知られたくない。そこで、生活音を録音しておき、留守中はそれを流しておくことにした。足音や炊事洗濯の音や「隣の旦那さんがこの前ね、、」などの夫婦のたわいもない会話やその他いろいろ。

 この事例について4つのシチュエーションが考慮される。

シチュエーション1. この夫婦が旅行中に事故で死んでしまった。連絡が取れないことを不審に思った知人が夫婦の家を訪ねてくる。誰もいないのに生前に録音されていた音のみが流れている。この録音は形見としてかけがえのない意味を持つのである。生きている者にとっても死んでしまった夫婦にとっても。

シチュエーション2. 夫婦は生きて帰った。二人の何気ない会話がかけがえがないものだということを、この二人は知り得ないこととなった。二人の記憶にさえ残らない。そしてそのかけがえのなさを、『私たち』(=他者)も知り得ないということになる。

シチュエーション3. 「私たち」がこの二人のことをまったく知らなかった場合。旅行に行ったかどうかも知らないし、録音の有無も知らない。岸はこれをロマンチックでノスタルジックだと言う。

シチュエーション4. 失われたこと、知らないことにロマンチックさ、ノスタルジックさが感じられるのだから、ロマンチックでノスタルジックなシチュエーションの最たるものは夫婦二人がそもそも存在しないことだ、と岸は言うのである。

岸はさらに考察をすすめる。そもそも最初から存在しないものは失われようがない、そのことについてはどうか。あるいは、「そこに最初から存在し、そして失われることもなく、だが誰の目にも触れないものの可能性」はどうか。

岸の感性が常人ではないことは確かだけれど、ここまでくるともはや「社会学」とは言えないのではなかろうか。この本の題名は「断片的なものの社会学」とするより「社会学者から見た断片的なもの」のほうがふさわしいように思う。


★土偶と植木鉢

 岸の「寄せ鍋理論」が紹介されている。相手に「いまから私と話をしましょう。そのための時間をください」と言えば相手は警戒するが、おいしい寄せ鍋を食べませんか、と言えば、ああ、行きましょうということになるという理論だ。

 確かに、あらたまって話をしたいって言われて宇宙がカラリンと晴れ渡った気分になる人はまずいないであろう。受けた電話が警察からだったら良いことは考えないのと同じである。

 ただし、エッジウェアのティーカップの縁を、カップに負けない白さの長くて優美な指でなぞりながら「あのね、、、お話が、、あるんだけど、、、、」なんて言われたときは別。男の頭というものは、そういうときには良い話かどうかの推測判断を第一の思考論点に置くようにはできていない。


★物語の外から

 このセクションには、戦争体験や人を亡くした体験などを学校やその他の場所で語って聞かせている人について、「そのとき、彼はなにかを『語っている』のだろうか。むしろ、彼は語りにつき動かされ、語りそのものになって、語りが自らを語っているのではないだろうか。」という記述がある。

 語りの究極は語り部が消えることだろう。明治時代の落語の名人であった三遊亭円朝があるとき天竜寺管長の滴水和尚たちの前で円朝が一席講じた。落語を聞いた滴水和尚は、「確かにうまいのだが、まだまだ舌があるなあ」と言った。この言葉を深く心に刻んだ円朝は参禅に励み、後日また滴水和尚に落語を聞いてもらい、確かに舌がなくなったとして「無舌居士」という号を与えられている。


★路上のカーネギーホール

 大阪、西成、新世界。路上のギター弾き。大阪に出てきて六十年。路上で弾いて二十年の人からの聞き書き。

 ギター弾きで驚くのは、楽譜が読めない人が多いっていうことである。私が習っていたバイオリンは弦が4本。それでも、ごく簡単な曲か暗譜するまで弾きこんだ曲でなければ楽譜なしで弾くのはまず無理である。それが弦が6本のギター。なぜ弾けるか分からない。コード名だけを頼りに全曲通して弾けるというわけでもなさそうだ。音符ではなくてタブ譜というものもあるが、タブ譜にかじりついてギターを演奏している人はみかけない。

 このインタビューの相手は80歳。一度もちゃんとギターを習ったことはない。蓄音機から流れる曲を聞いて覚えた。「それは自然しぜんにな。長い間にわかってきますやんか。ほいで、ああそうか、ピアノのミはこれやいうことが、わかってきますやん。ほいたらこのミであわしたらええなということで、なあ。ほいで、だいたい音を聴いておぼえたんですよ。」

「大きなイチモツをください」の歌で知られる「どぶろっく」のギター担当の人。あの人が前にテレビで言っていた。ギターを全く知らなかったので、テレビを観てどこを指でどう押さえるとどういう音がするかを覚えたという。単音じゃなくてコードですよ。テレビでギタリストの指なんてじっくり見せる番組はまずない。ちらっちらっと映るくらいである。しかもギターの音だけが聞こえているわけじゃない。それで、マスター。音の聞き取り能力、耳コピー能力、画像認識能力、記憶力、そして演奏力。なんでそういうことができるんだろ。人間は不思議な生き物である。


★出ていくことと帰ること

 岸は映画『ジュラシック・パーク』の台詞 ”Life finds a way” (生命はいつか必ず、「道」を見つける)が好きだそうである。このセリフもIngenⓇだと面白いけど、インジェン社はこういうことを言うキャラを与えられていないよね。

 岸は言う。どこかに移動しなくても、「出口」を見つけることができる。誰にでも、思わぬところに「外に向かって開いている窓」があるのだ。私の場合は本だった。同じようなひとは多いだろう。

 はい、その通りです。私もそうです。

 岸政彦、社会学からはみ出してるところあるなあと感じていたが、経歴がはみ出していた。ここまで本を読んで判明したところでは、二十年ほど前に大阪のクラブやライブハウスでジャズを演奏していたことがある。また、これも二十年ほど前に大阪でしばらく日雇いのドカタとして暮らしていた。

 これから読み進めてゆくとほかにどんな経歴が出てくるやら。著作物が面白いかどうかは、結局はそれを書いた人間が面白いかどうかだ。

お、言ったハナから出てきましたよ。岸政彦の経歴。「若いときに、沖縄のすべての離島をめぐって、ひとりで素潜りをしていた。知り合いも友達だちもいない離島だと、素潜りでもしないと間がもたないので、泳げないくせに、シュノーケルとフィンをつけて必死でひとりで海に潜っていたのだ。」

 「同じころ、夜中にひとりで散歩をするのが好きで、何時間も何時間も、大阪の街を歩いていた。」


★笑いと自由

 生きていると「もう、笑うしかないよね」っていうことはいくらもある。ただ、ここでの笑う相手は自分自身だ。それが他人だったらどうなのだろう。岸の記述を引用する。

 「末井昭さんの『自殺』という本がある。末井さんの母親は、若いときに愛人とダイナマイトで心中している。母親が木っ端みじんになっているのである。この体験をしばらく誰にも話せなかったが、あるとき、篠原勝之さんに思いきって話したときに、彼が笑いながら聞いたという。そして、そのことで、その話を他人に話すことが、かなり楽になったという。」

 この篠原勝之の笑いに対する岸の考察はこうだ。

 「私の勝手な考察だが、篠原勝之さんはその話を聞いて、馬鹿にしたのでも、表面的に面白がったのでもなかったのだと思う。ただもう、その話を聞いて、笑うしかなかったのだ。」


★手のひらのスイッチ

 岸は述べている。「子どものときに、いつも手のひらの中に見えないスイッチを握っていた。なにか困ったことがあると、空想のなかで「カチッ」とそのスイッチを押せば、すべてうまくいく、ということをずっと想像していた。小学生くらいまでだろうか。けっこう大きくなるまで、無意識のうちにいつもスイッチを手に持っていたと思う。」

 私は、父親の転勤のため小学校を3つ行った。鳥取県鳥取市、福岡県三橋町(現在は合併により柳川市)、福岡県久留米市の小学校である。

 三橋町の小学校は藤吉小学校という名前だった。ここでは校内も校庭での体育の時間もすべて裸足が決まりだった。寒い冬の間だけ、靴下を1枚履くことが認められた。学校生活は楽しかった。生徒を大事にする良い学校だったと思う。3つの小学校の中では藤吉小学校が一番好きだ。靴をきちんと履いていた学校よりも。

 そのころの社会の時間に、各国データの比較があった。例えば道路の舗装率。イギリスでは当時すでに100%だったが日本は1桁だった。道路が100%舗装されている国。私は何度も想像しようとしたが、具体的な風景を頭に浮かべることはできなかった。

 1桁ということは国道もひどかったわけである。舗装なんて珍しいんだから。国道でさえそうなのだから通学路は推して知るべしである。雨が降るとぬかるのは当然として、晴れていても道の中のあちこちから岩とか尖った石とかが突き出ていた。両脇は雑草地帯である。そういう中で、歩きやすい箇所を選んでの学校への行き帰りに、私はこう思っていた。

 「道というものには、秘密のスイッチがあちこちに埋め込まれている。そして何万回か分からないけど、私の足がそのスイッチを、あらかじめ誰かが定めていた回数踏むと、地球が爆発するのだ。」

 あだやおろそかに道を歩くわけにはゆかない。私が選ぶ足の着地点には地球と全人類の未来がかかっている。

 、、、そして年月が経ち、地球はいまだに爆発していない。これはまだスイッチの踏み回数が所定回数に達していないからだと思う。


★他人の手

 小学校のころ、先生からの今度生まれ変わったら男女どちらに生まれたいかという質問への子供たちの答えは男女問わずほぼ100%、「男」だった。今はどうだろう。

 私が女だったらイヤだなと思うこと。例えば、おっさんの裸を見せつけられるのはイヤだねえ。さらに、自分の体内に他の生き物の生体の一部が侵入してくるなんて、考えただけでおぞましい。女たちはどうしてこれに耐えられるんだろう。


★ユッカに流れる時間

 このセクションで新たに判明した岸の経歴。二十代のときに四年間、日雇いの建設作業員をしていた。体に自信があったわけではない。当時は背ばかり高くてガリガリに痩せていた。ひたすら自分を追い込んでみたかったのだ。

 また、遺跡の発掘現場でも長いこと働いた。調査研究要員としてではなく、人力で土を掘る土方として。

 また、巨大ビール工場で1日8時間、ベルトコンベアの前に座り、目の前に流れてくるビールの1リットル缶の6本詰め合わせセットの箱のなかの、一番左上にある缶のキャップのところに、オマケで付ける「ぴよぴよと音が鳴る注ぎ口」をシールで貼り付けた。ただし、この仕事は1日しか続かず、給料はもらわないままだった。

 岸の記述。「私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない。」

 私はよく言う。自分が飲んだお茶の味は自分にしか分からない。言葉で表現された味は味ではない。他の人は、私が飲んだお茶の味を自分を基準として類推しあるいは推測することはできるが、しかし、私が飲んだお茶の味は絶対に分らない。

 他の人がどう考えるかについて私に分かることは、私とまったく同じ考えはしない、ということだけである。


★夜行バスの電話

 大阪、梅田での小さなカラオケボックスでの聞き取り。

 このセクション、最後の一文を読んで仰天した。いわく、「固有名詞や事実関係などは大幅に変更してあります。」

 固有名詞を変えるのはよいでしょう。しかし、事実関係まで変えてあるなら、しかも大幅に変えてあるなら、これは一体何? 小説かい? このセクションをここまで読んできた私の表情を返せ。大幅に変更したという体にして聞いた通り書いてあるのなら、まあ、いいけども。

 このセクション、岸の考えていることは、わからん。


★普通であることへの意志

 普通であるとはどういうことか、他者からとりたててラベルを貼られない「無徴」であることの考察がなされている。

 昔、ストリーキングというものが流行したことがある。流行と言っても話題にはなったが実践者はごく少数だった。街の中を女子高生が全裸で疾走したというニュースは熱気を持って拡散した。

 ところで、街中で全裸でいることと、銭湯の湯舟の中で外用の服をそのまま着ていることとは、どっちが恥ずかしいかというとどちらも同じようなものではなかろうか。そうなると恥ずかしいのは裸でいることじゃない、周囲の人と違う、つまり普通じゃないということだね。ま、このへんの考察は社会学者にやってもらおう。


★祝祭とためらい

 人類学者である小川さやかの著書「都市を生き抜くための狡知 - タンザニアの零細商人マチンガの民族誌」が激賞されている。読んでみたいなと思ってアマゾンで調べるとなんと新刊で5,720円もする。古本でも5,200円から。よってこの本を読むのはスッパリあきらめた。


★自分を差し出す

 最近、どういうわけかユーチューブを開くと会津藩関係の動画が表示される。会津か。もう、思っただけで涙を禁じ得ないね。萱野権兵衛とか、会津武士の誇りのためにのみ戊辰戦争が終わった後であったにもかかわらず腹を切った萱野の16歳の息子とか、あるいは西郷頼母一族とか、中野竹子とか、それからその他のたくさんの人たち。ユーチューブ、最初の頃は見ていたけど、切なすぎるので今はもう見ないようにしている。会津藩の人たちは何に自分を差し出したのか。それを考えることが彼らへの供養になるのではあるまいか。

 会津藩には什(じゅう)の掟というものがあった。什とは藩士の子弟たちを班分けしたもので、班長たる年長者が掟を一つずつ順番に唱え、それに背いた会津藩士として恥ずかしい行為がなかったか、什に属する少年藩士たちに自分のふるまいを点検させたのである。

一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ

などいくつかの項目があるが、私が一番好きなのは、最後の項目である。それは、

ならぬことはならぬものです

 あえて理屈をつければ理外の理とでも言えようか。しかしこの言葉を分析するのは野暮である。ああ、この感覚、これが会津だったんだとそのまま素直に感動しておきたい。


★海の向こうから

 岸は言う。本人の意思は最大限に尊重されるべきであるというのは、その通りだ。しかし、本人の意思を尊重する、というタテマエを利用した搾取がある。その一方で、本人たちを心配する、というかたちでのおしつけがましい介入もある。


★時計を捨て、犬と約束する

私はテレビの「プレバト」という番組内の俳句コーナーが好きだ。夏井いつきという名物先生が、タレントたちが提出した俳句を忖度なく評価する。よい句は絶賛し、つまらない句は腹立たしいと言い、ありふれた発想の句の作者には「キング・オブ・ド凡人」と罵倒するのである。

 俳句で夏井先生がよく戒めるのは擬人化である。俳句ではつい擬人化したくなるが、これは高等技術であって初心者が安易に手を出してはならないものだという。

 話はちょっと飛ぶが、日本の歌、特にJ-POPの頻出歌詞は「一人じゃない」(同様な意味の表現を含む)っていうのと「桜舞い散る」ではなかろうか。桜舞い散る中で、一人じゃないことを感じ、カノン進行のコードを付ければ1曲できあがり。

 この桜舞い散るはまさに擬人化である。桜は舞ってはいない。風という物理力によりその位置や方向や落下速度が変化しているだけだ。そして、相手が無生物ではない場合、擬人化はさらに顕著になる。例えばペットとか。それが悪いと言っているのではない。ものごとをありのままで見るっていうことは、一面、身も蓋もないっていうことでもあるし、人間はとにかく擬人化したがる生き物だ。

 以前、外気温の低い日に犬を散歩させていておばちゃんに声を掛けられた。声を掛けられたのは私ではなく愛犬のほうだが。おばちゃんはこう言ったのだ。

 「まあ、あなた、こんな日に裸で。寒くないの?」

 このおばちゃんが犬の皮膚感覚を人間の皮膚感覚と同じと捉えるという本人の幸福は最大限に尊重されるべきであろう。


★物語の欠片

 このセクションには、その表題通り、まさしく欠片のさらに欠片というべきものが雑然と放り込まれている。これだけを読まされてもどうしようもないなという文章群。せっかく読んだのに何もないのもシャクなので、あえて成果を。

 岸が飼っていた猫の名前は、「おはぎ」と「きなこ」だ。


★あとがき

 最初のところで書いた。この本のコシマキには「この本は何もおしえてはくれない。」と書いてある。実はこの文には続きがある。「ただ深く豊かに惑うだけだ。そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。」

 まさにそういう本だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?