日本思想との軋轢

 その日の午後は自習時間になっていて、私は明後日に控えた発表のパワーポイントを作っていた。起業家人材育成を掲げたコースに入っており、経営ゲームの結果を元に資料を作り出資者を募る。
 私はお金について考えるのが苦手で、やりたいことをやりたいタイプだ。16タイプ(BTMI)の性格診断をしたことがあり、確か自分のタイプは平均年収がタイプ中最低だった。
 なんで起業家人材育成コースに入ったのかというと、もう一つ選べたコースが専門コースで、専門には行きたくなかったからである。ちなみに分かる人に言うと電気電子系の高専5年生、20歳である。高専は後に詳しく説明する。
 みんなで課題解決をするグループワークの紹介を見て、面白そうだと思ったしそこは入って間違いなかった。チームだからこそ発生する壁と、そこにできる自分なりのアプローチの仕方を学んだ。
 経営ゲームがこのコースの最も面白くない部分だった。簡単にいえば材料を買って製品を作り市場で売る。毎月競りがあり、より安い製品が売れる。製品のクオリティーと売値バランスで儲けていくゲームだ。
 楽しくない理由はいくつかあるが、一番は自由度の低さ。儲かる型が決まっていて、それを見つける速さを競うだけ。やりたいことが見つからないゲーム=クソゲーであることは、寄り道推奨のティアキンが史上最高のゲームと言われていることから自明である。
 そんなクソゲーの発表とか嫌だよと思いながらパワーポイントを作っていたら、自習時間はもう終わり、先生が自習終わりの出欠確認を取りに来た。そのとき、クラスメートが集まって麻雀をプレイしているのが先生の目に留まった。最初は注意で終わらせようと思っていたのか小言を言うだけだったが、改めて顔ぶれを確認したところ、ここのところ成績が下がっている人たちだったらしく説教がヒートアップ。
 先生はいきなり声を張り上げ台パンしたためクラスは静まり返った。教室でゲームするな、成績低すぎ、と怒鳴る。成績については麻雀をしていた人たちだけでなく全体に向かっても言っていたが。
 私はそれをPCで作業しながら聞いていたところ、帰り道後ろの席の親友にそれを咎められた。そのことにとても驚いたのでこの記事を書こうと思ったのだ。

 この事件について考える前にいくつか前提を共有したい。
 まず先生は前から教室でのゲームを認めていなかった。理由は、教室は学びの場であるから。その時特に反論する人もいなかったし、学級議題として話し合おうともならなかったのでみんなそれを了承している、はず。まあだから教室でゲームする奴が悪いのは間違いない。ただ言い方がかなり軽かったので、まさかあんなにブチギレるとは思わなかった。複数要因あるとはいえ。
 次に、ここ高専の特性について。高専は5年制を採用しており、15〜20歳の学生が集う。1年生は全専門系の体験をして好きな系を選ぶ。そして教員は専門知識を有する人材を4年で生み出す。ちなみに私のいる電気系の主な就職先は工場勤務かFE(客先修理的な奴)である。
 なんでこの話をしたのかというと、先生の立ち回りに影響するからである。実は先生が教室でゲームを咎める理由をもう一つ発言していた。そんなんで社会の荒波に揉まれてやっていけるのか、と。
 ひと言で言えば"理不尽に耐えろ"。これについて考えたい。学生とはいえ二十歳である。高校生に言うならまだわかる。だが卒論を書いている研究生にいうことか?という疑問である。高専はその教育方針上、理不尽を感じることが普通校より多いはずだ。その最たる例が実験報告書なのだが、それについてはまた別の機会に。つまりもう十分理不尽に耐えうる人材になっているはずだ。
 教師には無条件に権威が必要である。戦後教師は特に尊敬されていた。高専の設立は1962年であり、その頃から大きく形は変わっていない。今こそ減ったが、ほんの15年前までは、教師が大声で「"大企業(三菱とかトヨタとか)"入りたいなら真面目に授業受けろ」とか言っていた学校である。高専は長い間閉鎖的な空間だったので時の流れが他より遅かったと考察できる。最近はかなりオープンになってきたので高専に入る人は心配しなくていい。また次の機会に、高専5年で得たものについて記事にしようかと思っている。

 長々と話したが、つまり"教師の権威は高専の5年にも示す必要があるのか"を議題としたい。
まず先生側の側に立つと、
・就職先で理不尽に耐えるため
・ゲームは以前から注意していたため
・成績の悪さを指摘するため
がある。これらから議題は肯定される。またおそらく説教を受けた学生側もある程度これを理解しているから黙って受け入れているはずだ。親友もそれをわかっているからこそ、知らんぷりでPCで作業している私を咎めたのだろう。

 ここからは完全に私見で、この議題について考えたい。私は高専生の中でもかなり頭のおかしい考え方をしていると思う。ようは否定するだけなのだが。自分にとっての当たり前を言語化するのは本当に難しいので、ご容赦いただきたい。
 以前、中学校時代、私は仲のいい友達から西洋思想っぽいよねと言われたことがある。ここからの考え方はそれに近い。
 これは先生にも言われたのだが、私は先生を先生として見ていない。というか見れない。私のいる電気系には本当にすごい先生が一人いる。進撃の巨人のキース・シャーディス教官のような人を想像して欲しい。
 そのすごい先生に指摘されたからといって変えられるものでもない。一度変えようと思ったことがあるが、どっと疲れるので辞めた。心理学でいう乖離の初期症状と思われる。
 あと先輩後輩関係を他の人と同じように捉えていない、と思う。先輩後輩がなぜ存在するのか分からないし、先輩に対して敬語は使っているが、無くてもいいのではと思っている。逆に後輩が私に敬語使うのも分からない。
 敬語って知らない人に使うためのもので、部活で会うような間柄で敬語は意味がわからない。先輩後輩に上下関係など無いと思っている。
 どうやら私は高専が養成している人材にはなれないらしい。それどころか日本で本当に教育を受けてきたのか?と思う。まだまだ日本思想との軋轢はあるのだがこの辺で。
 私はこの議題には否定の姿勢を取る。考え方が180度違っているからだ。高校生までは教師に権威があったほうが事は上手く進むだろう。だがもうすぐ社会人になる学生に向かってまだ権威を示し続けるのは逆に成長を妨げてしまうのではないか。 
 これは日本思想と私の軋轢のほんのひとつのに過ぎないのだが、多分面白がってくれる人がいると思うので文字に起こした。今度親友にも私を咎めた真意を聞こうと思っている。
 もっと人々の心を揺さぶるような哲学的二択だと思ったのに文字に起こせばただ考え方の合わない学生が日常の一幕に文句を言うだけになってしまった。
 長文失礼。読んでくれた人に感謝を。       
 

 

 
 
 

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