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【愛とゆるし】金龍の奇跡
自分を取り巻く空気のことを考えます。
この空気はあなたの周りにありますが、実はあなた自身でもあります。
あなたの前世は、転々と世界中を旅してきました。
それゆえに、あまり執着というものがありません。
対人関係においては、例えばあなたの周りの人は「軽んじられてるのではないか」と感じます。
もちろんあなたにはそんなつもりはありませんし、何気ない言葉で傷ついたと言われてもまったく検討がつきません。
なぜならあなたにとって肉の身は、単なる仮の宿に過ぎないからです。
ですが、人の魂がなにがしかのゴールに向かって流れていることはわかります。
うまく言えませんが魂には目的があるということです。
そのためには、肉体を上手に使わねばならないと思っています。
ところであなたは、友だちに対する感謝よりも、両親に対しての感謝というものが深いのです。
時は812年頃、平安の都が定まりまして、それなりに人心は安定してまいりましたものの、今だに各地では、疫病が盛んに発生し、天変地異もそれに続いて発生していました。
現在の地名で言いますと、糸魚川、新潟のあたりにあなたは住んでおりました。
家は衣を染める仕事をしておりました。
それゆえ両親は、自然にあとを継ぐであろうと思っておりました。
ところがあなたは、関心があることと言ったら、霊の話、神の話、仏の話ばかりでした。
あなたには二つ違いの妹がおりました。
年ごろになっても相手が見つからず、かと言って家業を継ぐそぶりもないので、ある日両親はあなたを呼んで問いかけます。
私たちももう年をとった。
そろそろここらで後継者を育てねばならん。
そこでお前の正直な気持ちを聞かせてもらいたいのだ。
お前は我が家を継ぐ気があるか?それとも嫁ぐ気があるか?
残念ながら、そのいずれにもピンときませんでした。
気になることがあるのじゃ。
お前はいつだって空を見ている。
仕事に身が入ってないとしか言いようがない。
お父さんお母さんその通りでございます。
浮世離れしていると言われたらそれまでなのですが、私は嫁ぐことにも仕事のあとを継ぐことにも、とんと関心が湧かないのです。
そうであろうな、困ったことじゃ。
そこでなんなりと、私の妹に後を継がせてくださるようお願い申し上げます。
お前の生活費はどうするのじゃ?
わしらも年老いてな、遠方に商いをするわけにもいかん。
我らの新代をお前の妹が継ぐとすれば、妹が稼いだお金をお前に給金として払う形になる。だが考えてみよ。これはあべこべではないか。
どうか心配なさらぬよう。
私は山にこもり修行したいのです。
なぜじゃ?
黙ってあとを継げば豊かとは言えぬまでも食いぶちに困るようなことはない。
それともお前山に恋しい人でもできたのか。
いえ、そうではありません。
純粋に修行したいのです。
変わった子じゃ。
何もなければそこそこ幸せになれようものを。
よし話は決まった。
と言うと、母親はオロオロして父親を制止しょうとした。
何の、ここで止めなければ何の父親の甲斐がありましょうか。
娘の途方もない申し出にあなたは何ということを言うのです。
せっかんしてでも止めてください。
いやあ、無理じゃ。
この子はむかしから一途でのう。
わしらの話など聞きはせん。
思い立ったら直ちに行動に移す。
このように血気盛んな命がこの当時から流れていて、それは数々の輪廻転生を通して変わらぬ、純粋なあなたの魂の性(サガ)である。
なあ、考えてもみよ。
わしらとて同じことじゃが、親に育てられたという記憶はないぞ。
子どもというものは自ら育つものではあるまいか。
何になりたいかは強制してもどだい無理な話し。
しかしこの子は立派にやっていけるでしょうか。
そこでもう検討つけてある。
峰山という山があってな、多くの修験者が修行しておる。
そこの先達にもうすでにお願いしてある。
どうじゃ、そこで修行する気はあるか?
と、父親があなたに面と向かって問うた。
もちろんですとも。
よしわかった。
ではそこへ修行に行け。
待て、紹介状を書いてやる。
スラスラと達筆な字で、父親は紹介状をしたためた。
その晩母親は泣いて父親に訴えた。
本気ですかあなた?
子どもを死ににやるようなものでございますよ。
なあに安心せい。
あの峰山は多くのものが命を落とした。
だから危険だと申しております。
そうではない。
荒行が多いあの子でも、ふた月もすれば諦めて帰ってくる。
その時、本腰を入れて商いに勤しめと言うて聞かせる。
ところがあなたの根性は半端ではなかった。
それは今世でも同じことであろう。
人がやめておけとか、不可能だと言えば言うほど、そのハードルを超えてみたくなるのだ。
その根源は遥か昔にまで遡るが、いずれにしても今日はそこまで話を持っていくことはできません。
さて、二月経ち、三月経ちましたが、一向に修行を諦める気配はありません。
父も母も遠巻きに修行の有様を眺めておりましたが、
なんたることじゃ、女子(おなご)の身であそこまで頑張るとは。
まったくもって大の男でも歯が立たぬような難行苦行の岩登り、滝行、すべてを軽々とこなしているではないか。
修行が進んだある日のことである。
先達の上人はあなたに向かってこう言った。
私も驚いたが、お前には途方もない能力がある。
よいか、きょうからわしの後継ぎと思うてさらに厳しい修行を課すぞ。
その最も厳しい修行とは五穀断ちというものじゃ。
煩悩を抑えることはできても、人間食欲を抑えることは甚だ難しい。
こう言って、難行苦行が次々と加えられてきました。
さて、修行が進んでちょうど4年目の夏の日。
かの糸魚川が氾濫を起こしました。
下流の村はことごとく水没し、たくさんの死者が出る有様となりました。
そこで国を挙げて人柱を探すという騒ぎにまで発展いたします。
その話はついに上人のところにもやってきました。
お前の弟子で、霊験あらたかな弟子はおらぬか?
最初はいませんとにべもなく答える上人であったが、
上人、お前の一番弟子はどうだ?
それは相成りませぬ!
なぜじゃ?
あのものを亡くせば、修験道が廃れてしまいます。
ならば聞くが、修験とはなんのためにある?
諸々の衆生の悩み苦しみを聞き、生活の困難を救うためにあるのではないか?
いま川の氾濫を止めねばなんの修験道の意味があるか。
お前たちが救うのは、今世の人間ではないのか。
それとも目にも見えぬ来世の無数の民を救うとでも言うのか。
ならぬ!
そのものを差し出せ!
あまりの剣幕ぶりに上人はついに根果て、ある晩あなたを呼んでこう言う。
わしは空を飛び、海に潜り、風を操る術は持っているが、人の心を操ることはまだまだ未熟じゃ。
聞けば糸魚川が大いに氾濫し、多数の死傷者が出ていると聞く。
わしは悩んだ。
修験の道というものは、およそ人間社会とは関係ないものと思うておうた。
個人が悟りを開き、御仏に近づくのが修験である。
だが、村人から幾ばくかの世話を受けておる。
ついに断れぬ時がきたのじゃ。
上人様、わかっておりまする。
すすんで人身御供となりましょう。
嘆かわしいことじゃ。
修験の修行を積み、挙げ句の果て人身御供となって果てようというのか。
あなたも悩んだものである。
仏に身を捧げることはできたが、人々のために身を捧げることには抵抗があったからである。
あらためて自分の心の狭さをあなたは感じたのである。
自分の今までの修行とはなんだ?
御仏の前には進んで命を投げ出せるのに、人民の悩み苦しみのために人身御供になるのは、悟りの道と人身御供と差別をつけていたのだろうか?
自分の悟りとはいったいなんだ?
さて三日後が人身御供の儀式というその晩、あなたは首を垂れて上人に挨拶にやってきた。
長い間、お世話になりました。
あまりの難行苦行のために、あなたは右手右足に大怪我を負っている。
ゆえに生まれ変わるたびに、右側に障害を生ずるのである。
すまんのう、わしの力不足のゆえに、お前は三日後に生贄となる。
わしの中で修験と人身御供が未だもって一つにつながらないのじゃ。
もしお前が死んだとしよう。
わしはどうやってお前を供養すればよかろうか。
修験の道にはなんと説かれていますか?
人身御供などと言葉はない。
およそ衆生の世界とは無縁の世界が修験。
三日後、ついに儀式がはじまった。
柱に全身を結わえられ、徐々に徐々に川底へ沈められていく。
これで終わりか。
御仏はここまで犠牲を要求されるものか。
その時に、夢か現(うつつ)かわからぬが、川の上流から金色に光る龍がやってくるのが見えた。
気でも狂ったのだろうか。
私には龍が近づいてくるように見える。
そして自分の身が川底に沈む、それと同時に龍神が自分を一飲みにしようとするのが見えた。
龍神様、名をなんと唱えればよいかわかりませんが、死ぬのなら楽に死なせてください。
我らは水の精の化身。
いつの時代もそうであるが、権力者は富を蓄え、下のものの生活の苦しさには知らん顔している。
なぜ吐き出さぬのであろうか。
なぜ民のためにひと肌脱ごうと思わぬのか。
しかしお前は変わっている。
私はきょうにも人身御供が行われるのを知ってお前の魂を一目見にやってきた。
そもそも人身御供にあう人間は、今際の極み、人間に対する憎しみを雄叫びをあげるようにして、我らに訴える。
だがお前にはなんの恨みも苦しみも愚痴も弱音も感じぬ。
お雨は変わった御供だな。
私は単純に理(ことわり)が知りたいだけでございます。
そうか、教えてやろう。
なぜ川が氾濫するかを。
民の涙じゃ。
民の苦しみじゃ。
それが天変地異や疫病や洪水となって表れるのだ。
お前に聞く。
どうすればこの氾濫を防ぐことができると思うか?
ギリギリの状況で考えるのだ。
大体はこの反乱を起こした人間に対する怒りをもって死ぬ。
怒りを持てば死ぬのだ。
いいか、一つだけ教えてやる。
人の上に立ちながら権力をほしいままにし、暴君のごとく振る舞う人間。
その人間を憎むのではなくゆるしてやれ。
そんなことができるのは、おそらくお前しかいまい。
窒息しそうな苦しみの中で、あなたは諸々の権力者。
人の上に立ちながら、その下のものの苦しみをなんとも思わぬ人間たちを、本来なら憎むべきところを力の限りゆるそうとした。
よし、それでよい。
我ら龍神はその人間のゆるす心を待っていた。
いいか、我ら龍神は力は強いが唯一欠点がある。
それは悪をゆるすことができないということだ。
もし悪をゆるす人間がいたら、我らは喜んでそのものに仕える。
それから数時間が経った。
気がつくと、眩しい光の中であなたは川べりの近くに横たえられていた。
驚いて起き上がって、周りの人々に聞くと、
不思議なことが起きた。
川に反乱はピタリと止まった。
みるみる水が引いていった。
村人は一同にこう言った。
人身御供が助かる御供など初めてじゃ。
その時初めて心から笑う村人の姿を見た。
このようにあなたの中には、力から愛へ、怒りからゆるすへと、時代の流れを大きく変える力が宿っているのだ。
力だけでは人をゆるすことはできない。
もし力を持つ人間が人を許すことができたら、御仏は限りなくその人間に支援の光を注ぐであろう。
今までたくさん理不尽の仕打ちを受けてきたし、自分自身をどうして芽を出していいかわからぬかもしれぬ。
その時あなたは心を定めねばならぬ。
力で道を打開することはできない。
自分が悔しい思いをしたり、自分に対して冷たい仕打ちをした人間。
自分を見向きもしなかった人間。
そうした世の中の諸々の無知と無謀とやるせなさを、どこまで包むことができるか。
これに気がついた時、あなたの人生は根こそぎ変わる。
変わるのは六月三日以降である。
画像(絵画 ASAMI)
2021年2月タマシイヒーリング(ASAMI)by Dr.Shu
黒髪山ドラゴンゲートにて
コロナ禍の最中にDr.Shuツアーに参加してくださった、祈りのアーティスト米盛麻美さんが、「第28回 日仏現代国際美術展」に入選されました。
タマシイヒーリングが魂の深い深いところに響いて創作される作品に影響を与えているとしたら素敵です。
入選された作品のタイトルは「地球人は片翼の天使」
2024年6月12日〜24日 六本木の新国立美術館にて
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