京都アニメーション作品における宗教の表象

はじめに

京都アニメーション作品を批評的に捉えるための基礎知識として大切なのは、京アニがかつて幸福の科学の布教アニメや人権啓発アニメに携わった事実を受けいれることだろう。なぜなら京アニが宗教アニメや人権啓発アニメの制作に携わっていた事実から目を背けては、京アニの最新作である『響けユーフォニアム3期』を読み解くことは不可能だからだ。
もちろん私は、京アニがかつて宗教アニメや人権啓発アニメを作っていた事実を掘り返して、かつての京アニの「汚れ仕事」を批判するつもりは毛頭ない。
だが、今の京アニ作品と宗教との関係性は切っても切れないものがあることを、この文章で論証したいのだ。

かに三匹の同人誌を手掛かりに

かつて90年代に京アニが宗教アニメや人権啓発アニメを制作していたという詳細は、かに三匹の『宗教アニメと人権アニメから見る京都アニメーション』という同人誌に詳しい。この同人誌では京アニが制作した宗教アニメと人権アニメとして以下の作品を紹介している。
かに三匹はこの同人誌で、まず宗教アニメとして『しあわせってなあに』(3巻で中断)という幸福の科学の布教アニメを紹介している。また、かに三匹はこの同人誌で人権アニメとして1995年の『残された名刺~ある在日一世の軌跡』、1996年の『二匹の猫と元気な家族』、1998年の『おじいちゃんの花火』の三作品を紹介している。

私は残念ながらこれらの宗教アニメや人権啓発アニメの実物を入手することができていない。『しあわせってなあに』の一巻だけをネット上で視聴したにすぎない。だが京アニが宗教アニメや人権啓発アニメに携わっていた事実は動かしようがないだろう。そして私が最も強く主張したいのは、これらの宗教アニメや人権啓発アニメの延長上に今の京アニの作品は位置づけられるということだ。

宗教アニメとして京アニ作品史を振り返る

今の京アニ作品のほとんどは、宗教や神様といった事柄を作品の中に巧妙にしのばせているのだ。ここでは京アニの作品史を辿りながら、簡単に宗教や神様の表象が行われてきたか確認したい。

・『フルメタル・パニック!ふもっふ』の7話である「やりすぎのウォークライ」において、ラクビーの練習前にラグビー部のメンバーがグラウンドで神に祈りを捧げるシーンが存在する。
・『ムントシリーズ』では、幸福の科学の布教アニメ『しあわせってなあに』で提示した世界観を踏襲していると言える。その世界観では、現世と天上世界が存在し、現世と天上世界は繋がっているという世界観である。
・『けいおん!』では「ふわふわ時間(タイム)」という楽曲が使用されているが、歌詞を読めば明らかなように、この曲は神様への願いを歌った曲である。
・『映画 中二病でも恋がしたい! -Take On Me-』において、富樫勇太と小鳥遊六花のふたりの旅は、富樫勇太の想像する神様に導かれることになる。
『氷菓』の第20の「あきましておめでとう」において折木奉太郎と千反田えるが神社の納屋に閉じ込められる。『氷菓』への深い考察は別稿に委ねたいが、「あきましておめでとう」というエピソードでは、仲間が居れば絶対的な推理力をもつ折木とそのような才能をもたない福部里志が、ある意味対等な関係に転じる「奇跡」が発生する。そのような「奇跡」が発生するトポスとして神社が周到に選ばれているのだ。
・『たまこまーけっと』の10話である「あの子のバトンに花が咲く」においても、常盤みどりが商店街の頭上に吊るされた巨大な魚にダンスのアイディアが出てくるように、柏手を打ちながら祈るシーンがある。また、南国の少女チョイ・モチマッヅィが神様へ捧げるダンスを披露するシーンもある。
・『映画 聲の形』においてもマンションから投身自殺を試みる西宮硝子の腕をつかむ石田将也は、「神様・・・どうか、もうひと振り俺に力を下さい。もう嫌なことから逃げたりしません。明日から…みんなの顔をちゃんと見ます。明日からみんなの声もちゃんと聞きます。明日からちゃんとするから。」という台詞を口にしている。『映画 聲の形』においても神様に懺悔するシーンは存在するのである。このように考えたとき『映画 聲の形』とは神様に懺悔した石田将也が西宮硝子の力添えを得ながら生きなおす物語として捉えることができる。
・『リズと青い鳥』においても、終盤、リズと傘木希美の声が重なりながら、「ああ、神様どうして私にかごの開け方を教えたのですか。」という神に対する呪詛に似た言葉を投げかけるシーンがある。『リズと青い鳥』は傘木希美が神様への恨みを抱きながら、それでも前向きに勉強や部活動に取り組んでいく物語として捉えることができるのだ。

このように、京都アニメーションの諸作品には神様や宗教への言及がなされているのだ。

特に『小林さんちのメイドラゴンS』は京都アニメーション作品における、神や宗教を考えるうえで、貴重な素材を提供してくれる。
『小林さんちのメイドラゴンS』の5話である「君と一緒に(まあ気が合えばですが)」は、現在の京都アニメーションにおける宗教を考えるうえで興味深いのだ。
このエピソードでは、神様あるいはそれに準じた存在として人間の信仰の対象になっていたエルマと、人間によるそのような宗教や信仰のありようを否定するトールが対立しつつも、友情を深めていく様子が描かれている。
このエピソードでは、宗教はトールに否定されつつも星に願いを捧げる人間の営み自体は肯定されるという点が興味深い点であると言える。
『小林さんちのメイドラゴンS』は京アニ放火事件の後に制作されたテレビアニメであり、放火事件の後の京アニ作品の特徴は色々と挙げることができるが、特に宗教への疑念を発露するエピソードを作っている点は大きな特徴だ。しかも宗教への疑念を抱くキャラクターを登場させながらも、永遠に続くと思われる人間の営みは肯定される点も興味深い。

『小林さんちのメイドラゴンS』から『ツルネ――つながりの射ーー』へ

『小林さんちのメイドラゴンS』で宗教への疑念を抱いたキャラクターとしてトールを描いていることは先ほど述べたが、『ツルネ -つながりの一射ー』においても宗教に疑念を抱き、信仰心を失ったキャラクターが登場する。それはすなわち、辻峰高校弓道部の二階堂永亮(にかいどう・えいすけ)である。
辻峰高校には指導者が不在であり、二階堂は指導者が不在の状況の中、弓道部を運営しているというキャラクターだ。

そもそも『ツルネ』シリーズにおいて、風舞高校の弓道部は夜多神社の神職を担っている滝川 雅貴(たきがわ・まさき)を指導者としている設定は忘れてはいけないだろう。
また、桐先高校の藤原 愁(ふじわら・しゅう)は西園寺先生という鳴宮 湊(なるみや・みなと)と同じ師匠から弓道を習っていたという設定も重要だ。さらにこの西園寺先生は滝川 雅貴(たきがわ・まさき)の祖父とも知り合いだという。つまり風舞高校も桐先高校も元は同門であり、その後ろ盾には滝川雅貴の祖父や滝川雅貴(たきがわ・まさき)といった宗教的な人物、すなわち神社の神職といった人物が配置されているのだ。ここにきて『ツルネ』シリーズも宗教的意匠を施された作品であることがわかるだろう。

これらのことを踏まえれば、辻峰高校弓道部の境遇は、宗教的指導者を欠いた宗教活動というアナロジーで捉えることができる。『ツルネ』シリーズにおいて、弓道部での活動とは宗教活動と限りなく近いものなのだ。辻峰高校の弓道部は宗教的指導者が不在で、「弓道の的は人間の腹だ」と断言してしまう二階堂は、信仰心を失いつつも宗教活動に取り組んでいるキャラクターということになろう。いうまでもなく、二階堂は『小林さんちのメイドラゴンS』において宗教を痛烈に批判したトールの後継的人物である。
『ツルネ -つながりの一射ー』では風舞高校と辻峰高校の対決が描かれているが、これは宗教活動=部活動において信仰心をもっているか否かの対決として捉えることができるのだ。
だが『ツルネ -つながりの一射ー』の結末において、二階堂のかつての指導者であった叔父の体調が回復してきた知らせを聞いた二階堂は笑顔を取り戻す。つまり結局は二階堂も弓道部の指導者=宗教的指導者を取り戻し、信仰心を回復させることを暗示させる安易な結末に落ち着くのだ。ここに『ツルネ -つながりの一射-』の限界性をみることも容易だろう。

『響けユーフォニアム3期』について

これらのことを踏まえたうえで、現在放送中の『響けユーフォニアム3期』における宗教の表象はどう考えれば良いのだろうか?『響けユーフォニアム3期』が全ての話数の放送が終わった時点で別稿を執筆したい。京アニ作品における宗教の表象についての興味は尽きない。



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