東京五輪:男子エペ団体金メダルに添えて -日本フェンシングの歩み-
2021年7月30日、男子エペ団体戦で、日本フェンシング初の五輪での金メダル獲得。日本のフェンシング界にとって、忘れられない1日となりました。
私は2005‐2010年まで男子エペの日本代表として競技生活を続け、2018年からつい先月まで日本フェンシング協会の理事として活動してきました。欧州勢が強いとされてきたこの競技・この種目で、日本がいかに金メダルを獲得するに至ったか、その経緯について、自分の経験も踏まえてご紹介させて下さい。
言わずもがな、フェンシングは欧州発のスポーツです。発祥の地と呼ばれるフランスをはじめ、イタリアやハンガリーなどは、国民全員が名前を知っている選手がいるくらい浸透していて、試合会場には大勢の観客が詰めかけます。その中でも今回日本勢が金メダルを取ったエペ(Epée:フランス語で「剣」という意味)という種目は、3種目あるフェンシングの中でも最も競技人口が多く、本場欧州でも花形種目です。そのエペ種目、しかもチームとしての底力が問われる団体戦で日本が金メダルを獲得したことは、快挙に間違いありません。今日この日に至るまで、日本のフェンシングには本当に長い長い道のりがありました。
私が日本代表として活動していた今から10年(以上)前。フェンシングは一般に認知されない正真正銘の「ど」マイナースポーツでした。私は2007年、エペ種目のワールドカップ(年に数回開催される国際連盟主催大会)で日本人初となるメダルを取ったのですが、道具代や遠征費は全て自己負担。選手としての年間活動費は300-400万円程度かかるため、大学生だった当時は授業と練習の合間を縫って複数のバイトを掛け持ちし、奨学金や親の仕送りでやりくりしながら競技を続けていました。遠征先では大きなフェンシングバッグを抱えながらユースホステルに泊まったり、同じ部屋だった先輩とカップラーメンをすすったり、ひもじい思いをしたのを今でも覚えています。社会人としてフェンシングで食っていこうなんてとても思えず、大学卒業と同時に迷わずビジネスパーソンとしてのキャリアを選択しました。大好きだったフェンシング、競技者としての第一線から退くことは辛かったですが、「自分の人生投げ打ってでも好き!じゃなければマイナースポーツなんて続けてられない」というのが当時でした。日本代表だった自分ですら、フェンシング競技で日本が五輪でメダルを取るなんて夢のまた夢だと思っていたのです。
その機運が変わったのが2008年北京の銀メダル(個人:太田雄貴)と2012年ロンドンの銀メダル(団体:男子フルーレ)です。ごく限られた強化費を最もメダル獲得の可能性が高い男子フルーレに集中投下する戦略が見事に奏功し、結果を出すことができました。メディアから大きな注目を集め、お茶の間にもようやく競技そのものが認知され、全国各地に小中学生のフェンシングクラブができ、裾野が広がったことを感じました。選手目線でいえば、「自分たちはメダルに届く。いや、金メダルを取るんだ!」という意識がナショナルチームとしての標準装備になりました。昨今、陸上男子100メートルの選手たちが次々と9秒台を出していることと似たような意識の変化で今日まで来ることが出来ました。
但し、メダルを取っても代表選手たちの置かれた環境が劇的に改善したかと言えば、そうではありませんでした。マイナースポーツの宿命として、4年に1回、運よくメダル獲得で注目してもらえればチヤホヤしてもらえ、ダメなら沈黙&翌年からJOCからの助成金もカット、というシビアな現実があります。要は、財源(助成金やスポンサー)をうまく活用し、フェンシングを通じて世の中に価値や感動体験を提供していくという、スポーツとしてのエコシステムが形成されておらず、日本フェンシングの在り方がサステイナブル(持続可能)なものではなかった。競技人口が1万人に満たないマイナースポーツであり、協会の経営資源・運営基盤は常に脆弱、スポーツの祭典・オリンピックという名のもとに消費されるのを待つだけだったのです。無論、マイナースポーツに関わる者にとっては、消費してもらえるだけでも十分有難いことではあるのですが。
2016年リオ五輪でメダル無しに終わったフェンシング。消費されて終わりの無限ループからの脱却を図るべく、動いたのが現役を引退した太田雄貴です。彼は2017年、当時31歳の若さで日本フェンシング協会の会長に就任。最優先課題である選手の強化と共に取り組んだのは、①協会の経営理念策定、②大会改革とエンタメ化、③外部人材の積極登用、④マーケティング(スポンサー集めに会長自ら奔走)、⑤自治体との提携(渋谷区、佐賀県、沼津市等)、⑥小学校訪問などを通じた社会への感動体験の提供、⑦アスリート・フューチャー・ファースト(選手の将来も見据えたキャリア開発)、など多岐にわたります。全ては4年に1回の一発屋で終わらない為。太田雄貴というスターがいなくなっても、五輪ブームの余韻が消えたとしても、日本のフェンシングが発展しつつ、社会に価値を提供し続けられるという仕組み・好循環を生み出すためです。ちょうど海外赴任から帰国した私も、太田から乞われて理事として協会運営に携わることになりました。外部有識者も多く参画し、日本のフェンシングに必要な改革を、迅速かつ着実な意思決定でもって進めてこられたと感じています。無論、武井壮会長率いる新体制にもそれはしっかりと受け継がれていますし、数多くのスポンサー企業や、支援して下さる自治体・関係者の皆様にも支えられて今日まで辿り着くことができました。
そして迎えた東京五輪。男子エペの4人は飢えていた。何年も前から「東京五輪の団体で金メダルを取るんです」と言い続けてきた。見延のリーダーシップとコミットメント。山田の勇気と鮮烈。宇山の不屈とアクセント。そして加納の胆力と不惑。既に彼らの人となりや金メダルまでのエピソードの詳細は各種メディアに紹介されていますし、これからもされるでしょうから割愛しますが、エペ競技に打ち込んできた先輩のはしくれとして、4人の後輩たちを心から誇りに思います。おめでとう、そしてありがとう。「ど」マイナースポーツから這い上がったフェンシングは、これからまた新しい一歩を踏み出します。今回の金メダルマッチを観戦し、少しでもフェンシングに興味を持って下さった皆さん、スポンサードに名乗りを上げて下さる法人・個人の皆様、どうかこれからのフェンシング、持続可能なフェンシングに力を貸していただけますと幸いです。3年後、パリ五輪での新しい金メダルに向けて、日本のフェンシングはまた着実に成長を遂げ、選手たちと共に社会に対して様々な価値と感動体験を提供し続けていきます。
最後に、東京五輪という、選手たちにとって輝ける最高の舞台を準備して下さった皆様に、この場を借りて深く御礼申し上げます。日本がスポーツの価値を社会と共有し、一体となって更に互いの価値を高めていけるような国になって欲しいと強く願って、長い長い1日の結びの言葉とさせて頂きます。お付き合い下さりありがとうございました。
坂 俊甫
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