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僕らにはそういう場が必要だ

以前、自分の経歴についてこんな風に書いていた。

日本語教育の経歴は、こんな感じです。
 ①バンコク 大学の専任講師(約3年)
 ②東京 日本語学校の専任講師(約2年)
 ③アンカラ 文化センター/ 一般成人教育・教育アドバイザー(約3年)
 ④ケルン 文化センター/ 一般成人教育・教育アドバイザー(約3年)
 ⑤シドニー 文化センター/ 教育アドバイザー(現在)

アンカラとケルンの勤務先はカルチャーセンターのようなところで、日本関連の展示や講演やコンサートなどを行うような施設だった。そんな中での日本語講座は、中学や高校や大学などの学校教育とは違う「誰でも通える日本語教室」であり、いわゆる習いごと教室のイメージに近いものだった。
今回はこの「一般成人教育」で考えたことを書こうと思う。

一般成人教育の教室

勤務先の講座は、13才以上であれば誰でも受講可能ということで、色々な人が教室に集まっていた。

例えば、受講生の年齢層。
最も多いのは20代と30代の大学生や社会人で、次いで10代の中高校生。40~50代の方や60代以上の方も少なくなかった。ちなみに「学生」と言っても、工学、社会学、医学、経済学、メディア学・・・など様々な分野の人がいるし、当然職業も色々な人がいた。

また、日本語を学ぶ目的や日本との繋がり方も人それぞれ。
旅行のため、アニメがきっかけ、柔道をやっている、日本の建築を研究してる、日本に留学したい、娘が日本人と結婚して孫と日本語で話したい・・・などなど。共通することと言えば、多くの人が日常生活や仕事で日本語を必要とせず趣味や興味で学んでいるということであった。
(アンカラで「忍術を習っているから日本語もやっている」という男性に出会った。忍術教室を見学したかったが叶わなかったのを思い出した。)

はたまた、どんな人にも「学び方の好み」というものがある。
音声を聞いてどんどん理解する人もいれば、文字情報が不可欠という人もいる。グループ学習が好きな人もいれば、一人でやりたい人もいる。もっと教師の説明を!という人もいたり、自分の意見を言う時間がほしい!という人もいる。アプリやデバイスを使いこなす人も珍しくなかった。

さらには、アンカラもケルンも留学生や移民が多いということもあり、色々なルーツや母語を持つ人がいた。アンカラではトルコ語が、ケルンではドイツ語が共通語ではあるのだが、スペイン語や中国語やベトナム語やアラビア語(ケルンにはトルコ語話者の方もたくさんいた)・・・などなど複数の母語を持つ人が当たり前のようにいたのも印象的だった。さらには、ケルンでもアンカラでも設備が整っている範囲では身体に障害を持つ人も、いわゆる性的マイノリティと呼ばれる人もたくさん通っていて、自分の知る範囲では日本に比べてずいぶんと進んでいた。

様々な人が集まる場の意味

ここで日本語を教えていてふと自分に置き換えてみた。
「今までの自分の暮らしの中にこういう場があっただろうか?」と。

たとえば、、
高校生の時、おじいちゃんぐらいの年代の人と机を並べることがあっただろうか。
普段は接することがない職業の人と、知識や経験を交換することがあっただろうか。
自分と違うルーツや母語を持つ人と毎週のように何かを一緒にする機会があっただろうか。

そして、もしも自分にない経験や背景を持つ人たちと集まって一緒に何かをする場が暮らしの中にあったら、どんな影響があるだろうか、と考えるようになった。

日頃は出会わない世界に触れて視野が拡がるかもしれない
知らないがゆえに何となく怖かったものに対する理解が生まれて、ちょっと身近に感じられるかもしれない
自分と違う意見を持つ人とのやり取りの仕方を学べるかもしれない
その先に未知のものに出会ったとき、歩み寄る態度が身につくかもしれない
他人と自分の価値観を対等に考えられるきっかけになるかもしれない
先入観や偏見に流されずに判断ができるようになるかもしれない

こうして次第に「日本語を学ぶ場」という教室の捉え方が自分の中でだんだんと変わり、「多様な人が集まる場」として見るようになった。そして、こういう場が日常生活にある社会とない社会では、大きな違いがあるだろうと思うようになった。

「自分と異なるもの」と関わること

さて話は変わって。
この頃のいくつかの出来事から、僕らは「自分たちと異なるもの」と接することに不慣れになっていないだろうか、と感じることが多い。

例えば、コンビニで働く外国人の店員さんの日本語を揶揄するテレビ番組や、日本語を学ぶ人の誤りを圧迫すように指摘するネット上の声。他宗教やLGBTへの偏見、ある特定の国籍や民族に対するヘイトを扇動する発言。
学校でのいじめというのも、つまるところは多数の人間が少数の「違うもの」を受け入れずに排除する行動なんじゃないだろうか。

これらに通底するのは、「誰もが自分たちと同じである」という考えを無意識的に持っていることであり、「自分(たち)と異なる価値観は正くない」という考えが、多くの人々の中にあるからなんじゃないだろうか。

そしてこういう考えが作られたのは、普段の暮らしの中に「自分と異なる人々と関わる機会」が足りないことにあるんじゃないかと思う。自分と違うものを見ずに、知らないものは知らないままで、理解できないものは理解できないままになっている。そして無関心が作られて、偏見や分断が大きくなっていくのではないだろうか。

人は自分が知らない存在に対して偏見や恐怖感を持つ傾向があるそうだ。
しかし対話を通して相手を知ることで、その偏見や恐怖感を遠ざけることができると言われている。学校ではよく「人の気持ちになって行動しよう」と教わるが、他人の立場に立つことは誰かに習って身につくものではなく、現実の人とのふれあいや対話を通して、具体的なイメージを伴って備わっていくものだと僕は思う。そういった機会や教育が、僕らの暮らしからすっぽりと抜けてはいないだろうか。

2019年4月から施工された改正出入国管理法によって、日本で暮らす外国人が増えていく。このままでは、きっと理解ができないまま時間が経つだろうと想像する。
たとえば、日本に住む外国人と住民や学校教育が関わりを協働をする実践がたくさんある。外国人の方たちにとっては自分の住むコミュニティとのつながりができ、住民にとっては「知らない存在」を知ることになり、また子どもたちにとっては、外の世界に触れるこの上ない機会になる。
そして何よりも顔を合わせて対話をするという、代えがたい機会になる。
こういう取り組みがもっともっと多くの人に認知され、一般的になったらいいと思う。

分断や偏見の生まれない社会のために、そして新しい考えや価値観が作られていくために、そこに暮らす人々が「自分と異なる存在」と交流し対話する場が今の僕らには必要なんじゃないかと思った。

※写真はベルリンの市営交通の工事中のお知らせ
ベルリンらしい色々な人が描かれていた。公的な機関がこうした意識を表すことが必要だと思う。