ぼくのおはなし
想像以上にご要望頂いたので僕の人生のお話をちょっと調子に乗った形で、してみようかと思います。暇つぶしにどうぞ。
なお小説っぽく書くため
多少盛ってるかもしれませんが
盛っているところは夢という単語が出て来ます。
菓子太郎はガチです。
それではどうぞ。
_____________________________________________
「少年、立つ」
1995年12月19日18:50
緞帳があがる。
石川県金沢市にて3800g超の元気すぎる男の子が少々激しい産声をあげた。
母親の誕生日である17日が予定日だった彼は
「同じ誕生日なんて一緒にお祝いされるから嫌だ!」
と言うかのように2日遅れで産まれて来た。
名前は母方の亡くなった曽祖父が
俊と言う漢字が好きだったという、
なんとも言えない理由で
俊太郎と名付けられた。
ちなみに親父の実家は当時和菓子店を営んでいた。
そのため菓子太郎という名前も候補にあったらしい。というか菓子太郎を提示して来たらしい。
後々聞くと少年が生まれる前に亡くなった父方の祖母の遺言だったらしいが。
わかるだろう。
というか会ったこともないおばあちゃんに
本当に申し訳ないと思うのだが
完全にやばいことはわかると思う。
ごめん、絶対あたまおかしい。
まずいじめられるのは確定である
それも一生だろうな。
大学時代それを話してから
一部から一時期、キャベ太郎と呼ばれていた。
候補なのにこれである。
危険である。
母が必死に説得したとか
占い師がそんなんあかんやろって言ったとか
なんとかで
ぎりぎり回避したそうな。
おそらく菓子太郎だったら一生名付けた人間を恨んだと思う。大人になって初めて聞いた時は腹を抱えて爆笑してしまった。
俊太郎という、この名前はとても好きだ。
長いけれど、お気に入りだ。
そう名付けてくれた家族に感謝しているし、すごく愛着がある。
そんな少年、子供の頃はぷくぷくでまんまるの男の子だった。幼少期はとんでもない暴れ馬だったらしく。
デパートに行ってはいなくなり。
花火の炎を素手で鷲掴み。
自転車を素足で漕いで2針縫い。
まぁ手のかかる子供だったらしい。
その当時すでに両親は別居しており
物心がつく前には名字が近藤になっていた。
祖母に明日から俊太郎も近藤になるんだよ。
と車の中で言われた時は祖父母と同じ名字になると
とても喜んだ記憶がある。
親父の記憶はほとんど無い。
覚えているのはサングラスかけてた運転姿だけだ
ただ最後に玄関に残してくれた
野球盤だけは今も持っている。
母親は働いてくれている為、当然の如く
祖父母と曽祖母との時間が長くなっていた。
当然生まれる
かなりのじいちゃんばあちゃん子である。
今でも釣りやゴルフが好きなのは
じいちゃんの影響がかなり強いからだ。
そんなもうすぐ4歳になろうかという秋の日のこと。
祖母の元へ祖母が習っていた日本舞踊の家元である先生から一本の電話が入る。
「男の子で舞台に立つ子を探してるけど一回限りで良いから、俊太郎くんどうかな?」
最初は
「あの暴れ馬にそんなことできるはずがない。」
と母は断ったそうだが、
ピアノでもやらない限り大きな舞台に立つことなんて無いだろうと一回限りでやらせてみることにした。
お稽古が始まった。
毎週水曜日19時からの1時間のお稽古。
お稽古場まで1時間程度かかるために
帰ってくるのは21時。
おそらく、この歳の少年にとってはきつかったはずである。
しかし記憶は少し残っているが、しんどかったような思い出はない。お稽古終わりの70円ほどのマクドナルドのハンバーガーが楽しみで頑張っていた。
おそらく楽しんでいたのだと思う。
そして4歳になる直前の年の暮れ。
少年、舞台に立つ。
場所は金沢市観光会館(現.金沢歌舞伎座)。
演目は新潟県の民謡、三条凧囃子。
真っ暗な舞台袖。
幕間の静けさには心臓の音が響くのでは無いか
という緊張感
「孝藤まりこ社中で三条凧囃子です。どうぞ!」
ハ!ヤレヤレヤレ!
演目が流れる。
舞台袖から舞台に出る。
確か上手からだったと思う。
熱いスポットライト
燦々と照らされた舞台は高揚し
大勢のお客様が一挙手一投足を
見つめている。
最後の決め。決め切る。
巻き起こる割れんばかりの大拍手。
親戚のおばちゃんの
「俊太郎日本一!!」
の掛け声。
暗転して舞台袖に下手からはける。
何があったかもわからないような刹那。
ただ覚えているのは何もかもが新鮮だった。
おそろしい程の興奮だった。
初舞台を終えた少年は
後日宣言する。
「踊り、続けたい!」
この少年の小さな一声が
今後の彼の人生を大きく変えることになる。
5歳で祖母と2人で舞台に立つことになり、
それに向けて14時で保育園を早退してお稽古したり
新曲に挑戦したり
百万石行列で踊ってパレード歩いたり
踊りにのめり込んでいくのであるが
そんな少年の当時のヒーローは松井秀喜だった。
今では懐かしいブラウン管テレビのスピーカーの穴から松井ホームランと叫んでは応援していた。
可愛らしいもんである。
家の中でおもちゃのスポンジバットを振り回し、インパクトの瞬間に口を膨らませモノマネをしていたし。
またある時には
高熱を出しながら大阪ドーム(現.京セラドーム)のオープン戦を熱さまシート貼りつけて見に行って松井秀喜と高橋由伸のアベックホームランを目の当たりにするなどしていたり。
当時通っていた保育園でのボール投げの記録会では遊び場の端から端までボールを投げて、未だかつて破られない大記録を打ち立てたり(4歳)。
馴染みだけはあった。
だが家系的にはサッカーの家だった。
周りはみんなサッカーをしていて、当然サッカーに触れる機会も多く、当然の如くサッカーを習うつもりだったし、目標もJリーガーだった。
当時の1番の遊び道具は鹿島アントラーズのボールだった。
それに昔住んでいたアパートが小学校の目の前だったこともあって、外周をランニングしているジュニアサッカークラブに憧れていた。
小学生になったら当然あのユニホームを着るのだろうと思っていた。そして小学生になり、その予想の通りにそのユニホームを着た。
低学年だっただけに土日だけではあるが練習にいって試合にも出た。割と期待はされていたと思う。
試合にも出してもらっていたし、
パスもよく回って来た。
小学1年生だけど1試合2ゴールを2回やった記憶もある。
夢かもしれないが。
そんな夏のある日。親戚が甲子園に出ることになった。
当時彼にとって甲子園はひいおばあちゃんと一緒に夏に見る風物詩くらいにしか思っていなかった上に、その親戚も親戚が多すぎて誰か全くわかっていなかった。
なんとなく見に行った甲子園一回戦。
誰が誰だかわからない少年はその親戚をとにかく応援することにする。
そこで同じチームの投手に目が止まる。
左投手
次々と三振を奪っていく。
細身でしなやかで。
力強くて。
美しい。
「かっこいい」
この投手はのちにドラフト1位で
プロの世界に行くのだが、
ここで猛烈にこの左投手に憧れた少年。
今思えば、お目が高い。
しかしまだわけもわからない。
親戚をとにかく応援していた。
すると
「キゥイン」
甲高いような、でも少し鈍いような音が黒の金属バットから響いた。
白球は青空に吸い込まれそうになりながらも
いつの間にかその思惑から外れ、
落下してくる。
山脈のように、そり立ったコンクリートが
受け止めるように、そのボールは落下した。
レフトスタンドへのホームラン。
そう。
なんと目の前でその親戚の選手が7回にホームランを放つのである。
熱いガッツポーズ。大歓声。
そして
勝利。
野球に馴染みだけはあったこの少年。
完全に射抜かれたのである。
ノムさんとサッチーくらいの関係性の射抜かれ方。
衝撃だった。
「甲子園に行きたい!」
「マウンドに立ちたい!」
頑固な暴れ馬。
こうなったら止まらない。
その後の夏休みは永遠に壁当てをしていた。
その美しい左投手を思い描いて。
もちろん甲子園の実況付き。
「まず守ります。〇〇高校の。
ピッチャーは。近藤...ぐぅん」
微妙なニュアンスの独特な甲子園のアナウンスまで自分でやって。
少年はあっという間にサッカーを辞め、
10月から野球と日本舞踊の両立を始めるのである。
_____________________________________________
いかがだったでしょうか。ルーツ編。
なかなかの長編になってしまいました。次からはもっと短いと思いますのでお許しください。
改めて振り返ってみると濃密な幼少期と思います。
小説というかなんというか、長めですが、本が好きなのでこんな感じになりました。
感想沢山聞かせてください。
批判でもなんでもいいです。
声があった方が嬉しいので。笑
苦手な人もいるかもしれませんが
また暇な時に書こうと思います。
次回「少年、悟る」
いつになるかわかりませんが
珈琲でもお飲みになって気長にお待ちください。
近藤俊太郎
ご声援宜しくお願いします😊