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追憶「愛すべき役者、文楽人形」

 私が文楽人形と初めて対面したのは、小学6年生の頃だった。

 国立劇場の小劇場で公演を行っている文楽の舞台裏見学ツアーに参加した際に、楽屋の廊下で見た時が「初めての出会い」だった
と記憶している。

 人形遣いさんが参加者の親子らを案内をしながら、名越昭司先生が人形の髪を結う床山部屋を見学したり、小道具さんの部屋を覗いたり、大道具が置いてある舞台で写真撮影をしたり、そんな見学ツアーだった。

 まだ当時は、それほど文楽に対して親しみも関心もほとんどなかった私が、舞台裏に部外者とはいえ、踏み込み、触れたことで、舞台裏を含めた「芝居」の世界を、好きになるきっかけとなった出来事だった。

 文楽の人形を初めて間近で見た。楽屋の廊下にズラリと並ぶ彼らを見た時、圧巻された。と、同時に、私は彼らのことを尊敬の眼差しで見ていた。

以前、似たような見学をした何人かに文楽人形を初めて間近で見た感想を聞いたところ、返ってきたのは「怖い」という感想が半数ぐらいだった。言われてみれば、表情を持たない、何を考えているのか分からない存在である人形に対して、多くの人は怖いというイメージを抱く。

 しかし、そういった感想を聞くたび、疑問を抱いた。意外な返答だと感じた。私は文楽の人形を怖いと思ったことはなかったからだ。もちろん、俊寛のような凄絶な人形には、恐さを感じる。それは誰しもが抱く畏怖であって、単に怖いのとは異なる。

 なぜ、怖くないのか。今まで掘り下げて考えたことはなかった。それが、今さらになって、何を感じていたのか、不思議と鮮明になってきた。

そして、なぜ今再び人形のことを考え始めたのか。それは、先日のこんぴら歌舞伎大芝居で見た人形振りのお七の情熱が、私を追憶に誘ってくれたからだろう。

「文楽の人形は役者だ」

 元座付人形細工師である先生はそう言った。言われてハッとしたのを覚えている。そうか、役者だ。人形というよりも、文楽の人形は役者なのだ。

 最終的に魂を入れるのは人形遣いである。名人の初代吉田玉男師匠の遣い方が個人的には一番顕著で分かりやすい。人形遣いの舞台上での存在感は、影を通り越して、透けているほど。それはやはり、人間ではなく、人形が役者だからだ。人形遣いは、人形に魂を入れ、人形から魂を抜く。初代玉男師匠の魂の抜き方には戦慄を覚える。死神のようにさえ感じた。スッと抜く。上手い人形遣いさんほど、主遣いが胴串から手を離した瞬間に、人形から実在感が消え去る。

 私がなぜ文楽人形を怖いと思わなかったのか。改めて、その理由を簡潔に述べると、役者だからだ。舞台で見事な芝居を見せてくれる、愛すべき役者。人形でありながら、芯の通った性根がある。だから、彼らのことを憧れの眼差しで見ていた。尊敬し、人形のなかにある性根を知ろうとした。

 人形を見つめることは、人間を見つめることだった。見れば見るほど、聞けば聞くほどに新しい発見がある。見落としに気がつく。細部に掘り込まれた彫刻刀の跡を、寸法の理由を、顔つき、目つき、指先の向かう先、彼らは一体何を見ているのか。

 「知りたい」と思った時に、我々はすでに新世界に踏み込んでいる。そして、やがて、踏み込んだその世界を離れたとしても、そのとき得た学びが、また別の世界へと繋がってゆく。

「急がば回れ」

 あまり遠回りばかりしていたら、今はまだ見知らぬ待ち人たちも、待ちくたびれてしまうかもしれない。しかし、近道はつまらない。脇道へ入った方が思いがけぬ発見に遭遇して楽しい。

 大空を流れゆく雲にはなれない。羽ばたく鳥にもなれない。それでも、私には足がある。たとえ小さな一歩でも、世界は広がる。車窓から眺める風景は無限に続いている。だから、少しずつでも、歩みは止めずに、これからも見識を広げてゆきたい。

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