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震災から10年~日本人の新たな「共通のできごと」

 2021年3月11日、あの痛ましい災害から10年が経ちました。東日本大震災、国内観測史上最大のM9.0の地震が東北地方太平洋沖で発生し、それに伴う津波等による二次災害により1万人以上の死者を出した日本の戦後最悪の自然災害です。10年という時間感覚は人それぞれ違いますが、僕は特別早いとも遅いとも感じませんでした。当時の状況をあれこれ思い出してみると、感じるのは今とも昔ともつかない、ただ「10年前」という無機質な感覚です。無機質といっても震災に対して何も感じなかった事では当然なく、日本の歴史の中に刻まれた出来事の小さな証人の一人として、僕もあの日を経験したのです。

 2011年3月11日、横浜市内に住んでいる僕は通っていた中学校の卒業式を2日前に終えて、悠々自適な春休みを過ごしていました。当時、いわゆる"ニコ厨"だった僕は(ボーカロイドと歌ってみたは嫌いでしたが・・・)、ニコニコ動画でゲーム実況動画を視聴していました。その時期に見ていたのは専ら、Pさんによる「スーパーマリオブラザーズ3を4.16倍速でプレイする動画」でした。3月11日の午後も例に漏れずそれらの動画を何も考えずに見漁っていたのですが、午後2時46分、その時がやって来ました。
 始めは「あ、地震だ」程度の認識でしたが、いつもなら「そろそろ収まるだろう」と思う経過時間になっても一向に揺れは止まず、むしろ強くなっていきます。そして、揺れが始まってから30秒から40秒ほど経った時でしょうか、いよいよ経験したことのない非常に大きな震動がやってきました。あらゆる家具が大きな音を立て、本棚にある本や小物は次々と床に落ち、尋常ではないことを気付かせるには十分すぎる様相でした。小学校以前からの防災教育の賜物か、僕はすぐに机の下に潜り、揺れが収まるのを静かに待ちました。同時に「ああ、ついに来たか。学校やテレビでずっと言ってた『いつか来る大地震』がついに来たんだ」としゃがみ込みながら思っていました。揺れが収まると、窓を開けて外の様子を見ると同時に、テレビをつけNHK総合にチャンネルを合わせました。今起きた地震について「宮城県で震度7」と速報していて、自分の住んでいる神奈川県東部は震度5強。今まで震度4は体感したことはありましたが、初めて感じる「地震による恐怖」でした。
 程なくして、妹の通っていた小学校から電話が来ました。「そうだ、今日は卒業式だった」。地震が発生した時は丁度卒業式を終えたばかりで、みんなで和気藹々と話している最中だったそうです。全員が校庭へ避難し、保護者によるお迎えを待っているとのことで、仕事で親が家に不在だったので僕が小学校へ向かうことになりました。夕方、現地で妹と合流して帰宅すると、テレビの画面にはとんでもない光景が映し出されていました。炎上するビルや石油コンビナート、沖縄県にまで出ている津波警報、間髪無く鳴り続ける緊急地震速報、大津波で流されていく東北の街、沿岸に数百人の遺体が打ち上げられたという一報・・・。地震が起きてすぐに外出した僕は東北地方の太平洋沿岸に大津波警報が出ていたことも、今の地震が国内観測史上最大であったことも知らなかったのです。ただ、目の前のテレビ画面に流れている圧倒的な視覚情報で、「大変なことが起こっているんだ」とすぐに理解できました。まるでパニック映画のような、あるいは今まで他人事のように見ていた国外の紛争や大災害のような惨劇が、今この国で現実に起こっているのだと。夜になって親も帰宅でき、その日は余震も続いている中、物凄く不安を感じながら床に就きました。

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(上の写真は、翌日実際に10年前に届いた新聞です。いつかこの日の事を知れる貴重な資料になると確信して今日まで保管していました。ちなみに3月13日の一面は白抜きで「福島原発で爆発」と出ていました。)

新しい「大きな出来事」

 こうして2011年3月11日を終えた僕ですが、12日以降も福島第一原発が爆発して放射能の恐怖が世間を蔓延り、栄村や静岡県東部で普段なら大々的に報道されるレベルの大きな地震が誘発され、当時は新興ツールだったTwitterは虚実の混じった情報や噂が氾濫し、挙げ句の果てに携帯電話には「これから降る雨は石油コンビナートの火災のせいで原油が混じって危険!」などといったチェーンメールが送られてきました。民放各局は通常通りの番組編成に戻りつつありましたが、L字字幕で被害状況や避難所・安否確認情報が表示され、相変わらず地震速報も何度も出てきました。
 地震発生から1週間経つと被害の全容がようやく明らかになっていき、1ヶ月後には最大の余震が宮城県を襲い、8月には「セシウムさん」の放送事故もありながら、今年の漢字が「絆」に選定され、激動の2011年は幕を閉じました。その後も1年後や5年後といった節目の時期には各メディアで特集が組まれ、復興の様子や人々の変化が今なお僕達に伝わっています。

 そして今日「10年」を迎えた訳ですが、震災以降に生まれた子ども達はもう小学生になり、物心がはっきりと付いています。もう震災は「最近の出来事」という扱いはされないようになり、史上の大きな出来事になりつつあります。事実、現在学校で使われている社会科や歴史の教科書には震災が載っています。このように震災は日本人の誰もが知る悲しい出来事という立ち位置となりましたが、そのような顔を持つ出来事は国内にもう1つ大切なものがあります。戦争です。NHKの連続テレビ小説やノンフィクションドラマなどでよく描かれる戦争(第二次世界大戦)は、作中で主人公の生活や仕事を一変させ、物語に大きな影響を及ぼします。「あの出来事」「それはやって来た」という風に。現実でもほとんどの人がそのような体験をしたでしょうし、1945年以降も節目の年には「あれから○年」と人々が思いを馳せます。
 僕は、この戦争が担っていた「日本人全員が経験して知っている、生活を変えさせた不可避の出来事」という役割が、戦後75年以上が経った今、東日本大震災に遂に取って替わりつつあると感じています。戦争では日本が敗れ、政治が変わり、憲法が変わり、経済が変わり、国民の意識が変わりました。震災後も、国民の地震や津波に対する危機意識は数段階上がり、原発事故で国のエネルギー政策は大きな方針転換を余儀なくされます。そして戦争と同じように周辺環境が変わったり、失業・転職したり、愛する人を失った人が沢山いました。規模は違えど、多くの人の人生を変えた出来事として、震災は日本人の新たな「共通のできごと」となったのです。

 ただ、僕にはそれが少し怖いのです。震災という1つの大きな出来事によって、戦争という悲劇を人々が忘却してしまうのではないか?と。ただでさえ戦争を経験した人達は高齢化は著しく、いつかは国内で戦争を知る人はいなくなるでしょう(これから何も起こらなければの話ですが)。そうなると、20世紀初頭に安寧な時代をずっと生きてきたヨーロッパの若者が戦争に対してある種のロマンを抱いていたように、歴史の波の中に戦争というものが埋もれてしまう危険があるのです。
 何もこれは戦争に限った話ではありません。震災について言えば、震災直後は多くの人が地震や津波に「トラウマ」を覚え、災害が起こったらどうするか、避難所には何を持っていけばいいかなど、防災意識は高くなっていきました。震災は発生してから「まだ」10年ですので、未だに避難生活を送る方がいますし、意識や制度はしっかりと根付いていますが、60年70年と月日が経っていくうちに徐々に危機意識が薄れて、油断した頃にまた大きな地震がやって来る可能性は十分にあるのです。その「油断」をした最たる例が現在進行形で起こっている新型コロナウイルスの感染拡大で、深刻なパンデミックがここ100年ほど起こっていなく、あるいはパンデミックになる前に感染症を抑え込めていたために、ウイルスを甘く見ていた節がありました。これにより感染症対策や衛生観念もまた変わっていき、マスコミで使う言葉で言えば「新しい日常」が続いていくのです。

 このように、歴史は衝撃と忘却による大きな波によって動いていて、絶えず繰り返しながら人類は生きていくのです。忘却という話をしましたが、今は幸いにも文字や写真、動画をたくさんの媒体で記録し、保管できる時代です。今年は震災から10年ということで多くのアーカイブが紹介され、当時の様子を生々しく感じることができます。この節目に、もう一度10年前を思い出してこれからの備えに関して考えるのも大切なことだと思います。日本人に刻まれた大きな出来事として、経験や知識を活かしてまた悲劇を繰り返さない、被害を最小限にさせるのが今を生きる(生き残れた)私達の責務なのです。


(2011.3.11)

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