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杉本苑子「あすへの祈念」を2021年に読む

 二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押えることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。
(中略)
 オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
 あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四ヵ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。

 これは作家の杉本苑子さん(1925-2017)が1964年の東京オリンピックの開会式を見て書いた「あすへの祈念」という文章です。開会式の観客の一人として見ていた杉本さんは、1943年に国立競技場の前身である神宮競技場で行われた「出陣学徒壮行会」を回想し、思いに浸りました。平和の祭典が開幕しているたった21年前に、戦場という地獄行きの切符を与えられた学徒25000人が同じ場所で行進していたのです。その後、日本は敗戦を経て経済成長を遂げ、アジアで初めてのオリンピックが開催されました。暗い過去も、目の前に広がる平和の祭典も、同じ現実として厳然とある。それは近い未来はどうなるか分からないという恐ろしさを孕んでおり、今広がっている幸福と美しさをあすへとつなげていかなければならない・・・。戦後復興と平和の象徴を表現した名文です。

 価値観が180度転換する、昨日まで教えられてきたことが突然「間違いである」と否定される。そうそう起こることではありませんが、1945年の日本人はそれを経験しました。今まで「神様」だった天皇が人間宣言をし、学校へ行けば教科書には墨が塗られていました。そんな「時代の変化」がプラスの方向に働いたのが1964年の東京オリンピックでした。当時の杉本さんは観客の一人として、戦後の大転換を経験した一人として、この夢景色がまた地獄へと変わる可能性を危惧しています。

 さて、時代は変わって2021年。東京ではまたオリンピックが開催されています。この文章も開会式の中継を見ながら書いていますが、今大会はあまりに異例の大会となりました。新型コロナウイルスの影響で開閉会式とほとんどの試合は無観客となり、感染防止対策として普段とは違うレギュレーションが多くあります。感染拡大に歯止めがかからない中での開催は賛否両論あり、未だに開催中止を求めるデモも発生しています。コロナウイルスの感染抑制が進みWHO(世界保健機関)が早々にコロナ禍の終息宣言を出していれば、恐らく今大会の開会式は大いに盛り上がったことでしょう。しかし観客の姿はそこには無く、コロナの不安が付き纏ったまま「平和の祭典」は行われています。ニュースで今日の感染者は何人、死者は何人と深刻な感染拡大の情報が伝えられた数秒後には「頑張れ日本!」とオリンピックの話題が始まる・・・。現在の世界の状況を鑑みてオリンピックの開会式を見ていると、あまりに一時的で人工的な安寧にしか見えないのです。
 しかも、希望と輝いた未来に満ち溢れていた1964年とは違い、経済的な過渡期を終えた日本には当時のような活力や光は見られません。技術の進歩はあれど、「これが人口1億人の島国の限界である」という感想が出て来ずにはいられません。
 戦後に急転直下で180度の価値観の転換があったように、今大会が終わってから、祭典ムードは何処へやら、また世界は地獄を見ることは十分に有り得るのです。そして僕達は57年前に杉本さんが言うように、平和の祭典の美しさをそのままに、あすへとつなげるために祈り、行動しなければならないのです。


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