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引き継ぎ(短編小説;14,300文字)

<転勤先の「親切な」前任者にとことん振り回された末……>


「本日付けでこの長崎山営業所長に赴任いたしました、早坂です」
 事務机の前に並ぶ部下たちを眺めながら、緊張気味に私は話した。
「── 営業所勤務は初めてですので、何かと行き届かない面もあろうかと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
 私の横で、上背があり恰幅もいい紳士がにこやかにうなずいた。
「── 幸い、前任の所長であられる神野部長が、ご栄転で本社にお戻りになる前に、業務の引き継ぎを兼ねて1週間ご指導いただける事になり、たいへん心強く感じております。微力ではありますが、皆様と共に、会社と当営業所の発展に尽力したいと思っております」
 頭を下げると営業所員が一斉に拍手した。

**********

 入社以来本社の経理畑を歩いて来たので、先月末に営業所への異動を命じられた時、正直言って戸惑いがあった。子供たちの学校の事を考えると単身赴任は必定だったし、顧客相手、しかも成果がはっきり数字で出る仕事でどれだけ自分の力が発揮できるものか、漠とした不安が無かったとは言えない。

「早坂君、君ももう40だ。営業所勤務は、君がこの会社で課長級からさらに上を狙えるかどうかの重要な試金石となる。たぶん2年間の勤務になるだろうが、向こうでそれなりの成績を上げれば、将来は約束されたようなものだ。頑張ってくれ」
 経理部長はこう激励して、送り出してくれた。

「あなた、一緒に行けなくてごめんなさい。でも、美香は高校受験の年だし、幸太も私立中学に入ったばかりでしょ。だから……」
 妻は申し訳なさそうに何度も繰り返した。
「わかってるよ」むしろ、家族に対して済まなく思うのは私の方だった。
「心配しなくても、2年なんてあっという間さ。それに、前任の神野所長も単身赴任でさ、彼が長崎山で住んでいる賃貸マンションを家具ごと引き継ぐ事になっているし」
「それだけは本当に助かるわねえ。身の回りの品物をひと通り揃えるだけでも、結構お金も時間もかかるものねえ」
「ああ。それに噂じゃ、神野所長ってのは、かなり面倒見のいい人らしいな。長崎山で彼の部下だった田宮君が言ってたよ。今度だって、俺が初めての営業だっていうんで、人事に頼み込んで1週間の引き継ぎ期間をもらってくれたんだ。まったく、頭が下がるよ」
「神野さんって、まだ43, 4なんでしょ」
「うん。それで今度は本社の部長だ」
「たいしたものねえ」
「ああ。俺もあやかりたいものだ」

**********

「では、今日から早坂新所長のもと、営業所一丸となって仕事に取り組んでいただきたいと思います」私の挨拶に続いて、神野が口を開いた。
「それから、今日は新所長を御迎えしての1日目ということで、予定どおり、『花紫』の2階座敷で歓迎会を催したいと思います。メンバーひとりひとりの紹介は、むしろその場で行った方が良いでしょうな。この大酒呑みは誰、演歌の鬼は誰、裸踊りの名人は誰、ってすぐ憶えられるからねえ」
 20人ほどいる部下の中から笑いが漏れた。前任者の温かい配慮に、私は心から感謝し、もう一度、深々と頭を下げた。

 その日のうちに、現在進行中の事案に関わる引き継ぎはほぼ完了した。神野部長は評判通り面倒見のいい人で、長崎山における仕事の進め方を、順序立てて丁寧に教えてくれた。
 引き継ぎといっても、書類を渡すだけで、
『後は勝手にどうぞ、お手並み拝見』
 といった冷ややかな調子の者が多いと聞くが、神野部長のフォローは完璧に近かった。
(やはり、偉くなる人はどこか違うなあ)
 私は精悍な彼の横顔に時折目をやりながら、すっかり感心していた。

**********

「じゃあ、昼メシに出ますか。僕のお気に入りのメシ屋もお引き継ぎいたしましょう」
 前所長はおどけた調子で言うと、私を駅前の小さな和風食堂『楓』に誘った。
「ここの煮物定食と焼魚定食は日替わりで野菜サラダ付き、単身チョンガーにはありがたいもんです。天ぷら定食も中々いけますよ」
 なるほど、そこは地味な造りではあったが、お袋の味を求めて訪れるサラリーマンで賑わっていた。

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