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「鬼瓦妖之介土俵入り」を書いていた頃・クロニクル

クリエイターページの冒頭にしばらく載せておこうかと思っている、時代小説「鬼瓦妖之介土俵入り」は、かなり数奇な運命をたどった作品です。

最初に登場するのは大学を留年し、2年目のまだ1年。
「機械工学と人間」という工学系の教養部ゼミに登録したものの、第2回以降全講義を欠席し、レポートの提出期限を迎えます。
そこで、苦し紛れにA4用紙に2枚ほどの小説を書き、提出したのが、江戸相撲一弱い力士の物語でした。

レポート提出の数日後、ゼミ担当の藤井澄二教授から下宿に手紙が届きます:

あなたの提出した物語はたいへん面白かった。
しかし、課題からは外れているので、もし単位が欲しければ題意に合ったレポートの再提出を勧めます。

藤井先生からの手紙

私は急遽、マジメ版レポートをでっちあげて提出し、評価《A》(だったと思う)をいただいた。

うーむ、このセンセイはなかなかの大人物ナリ ── そう思っていたら、後に工学部長になられた。

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この2年ほど後、「花婆はなばば」と題する小説を書き上げたのを機に自費出版を思い立ち、学内地下室にあった印刷所に原稿を持ち込んで、200部印刷製本してもらった。
この時、物語「鬼瓦…」もレポート版を書き直して小説集に含めることとした。
小説集「花婆はなばば」は赤字だったが学園祭でほぼ売り切り、なんとか投資を回収して欧州ひとり旅に出た。

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それから10年近くが経過し、小説「木村家の人びと」で新人賞をいただいた私は、いわゆる《受賞第一作》を書くよう依頼される。
新作を1から書くのもたいへん、と「花婆はなばば」掲載バージョンの「鬼瓦…」書き直しに取り掛かる。しかし、そのままではあまりにも短い。
原稿用紙1枚当たりいくら、という稿料提示があったからというわけではなく、むしろある程度の枚数がないとカッコ付かない ── というおバカな動機で、ストーリーはほぼそのまま(今から思えば)1.5倍に膨らませた。

当時、かなり大物の編集者が担当だったが、私は電話口で厳しい苦言を浴びた。
「原稿に無駄が多すぎます。半分以下の量で充分」
え、半分、と驚いていると、
「じゃ、ざっくり手直ししましょう。── でも、いいですか、これは本来、編集者の仕事じゃないんですよ」
そして返送された原稿には、赤字で囲まれた『不要』『削除』だらけだった。ありとあらゆる箇所が「水膨れ」と指摘されたわけで、かなりの衝撃を受けた。
「これくらい無駄を省いたうえで、さらに言えば、登場人物に個性が無さすぎる」
そして、
「受賞第一作として掲載したかったが、それはもう諦める。1年ぐらいの間に書いてもらえば結構」

その頃は会社の仕事がかなり忙しく、ほぼ毎日残業し、土日もどちらか出勤していた。時間外勤務で給料が4割増しほどになったことがあるくらいです。
多忙さに埋没する日々の中、「鬼瓦…」原稿はずっと放置されていた。
そしてある時、ふと気付いた:
技術職である私が《日常業務》の中で読み書く書類は、論文や報告書であり、主語述語を正確に記述することが求められる。そして、その癖が残ったまま小説を書こうとすると、流れの悪い、とてもウザい文章になるのです。

そこで、週末に小説を書こうとするのは止め、GWや盆休みなど連休に《非日常》に浸かる時間を設けることにした。
時代考証のため、図書館で調べ物をする時間も必要でした。

1年近く後、《江戸相撲一弱い力士》というテーマのみ維持してほぼ全面的に書き換えた原稿を再提出しました。主人公をかこむ人々も、かなりの個性派揃いとしました。
── 今度はOKをいただき、雑誌掲載が決まりました。
掲載後には新聞の書評欄に出た好意的な講評の写しも送ってもらいました。

── 海外留学に手を挙げ、《再勉生活》を始める、少し前のことです。

noteに挙げた「鬼瓦…」は、この雑誌掲載バージョンを基本として、横書きweb版用に手を入れたものです。

ほぼ欠席のゼミにレポートとして提出し、藤井先生から下宿に手紙をいただいた日から、もう半世紀近くが経ちました。

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