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工作室と矢切の渡し

日本の大学院(修士)2年間は、結婚して常磐線の北松戸に住んでいました。
キリンベッドと別れた後のことです:

当時、工学系の学科にはたいてい「工作室」なるものがあり、旋盤とかボール盤などが設置され、金属部材を加工して実験のための部品を作ることができました。
余談ですが、これが化学系の学科になると、「ガラス工作室」があり、化学実験に使う石英細工品などができるようになっていました。教授クラスでもガラス細工の技能に優れた人がいたものです。

工作室は学生や先生が設備を使用してもいいのですが、腕のいいオジサンが「技官」として配属されていて、各研究室の依頼により、素人には手が出せないような実験装置や部品を作ってくれるのでした。

工作室のオジサンたちは、「教員」というより、まさに「職人」で、特に一番年長の ── 工作室の責任者だったAさん ── は腕はいいけれど、とても気難しく、設備の使い方について、よく学生を叱りつけていました。作業後の清掃がいい加減なため、いわゆる「出禁」になった学生もいたくらいです。

工作室内では手におえない、外部の加工業者に外注する部品も、値決めやスケジュール管理は、全てAさんの責任で行っていました。
当時、まだ50歳前後だったと思いますが、痩せて小柄なAさんの頬には、深い皺が刻まれていました。

私は手作りの装置でセラミック超微粒子の合成実験を行っていたため、工作室への依頼が多く、一旦作業を発注すると部品ができあがるまで実験がまったく進みません。その間はやむを得ず、計算機を使ったシミュレーションを行っていました。
FORTRANで書いたプログラムをパンチカードに打ち出して大型計算機に持っていく時代でした。

ある時の工作室で、私が北松戸に住んでいることをうっかり漏らすと、Aさんが、
「そうか、俺も松戸だ」と反応し、
「じゃ、今度の日曜、ふたりで遠足に行こう」
と前触れもなく誘われました。

うーん、と思いつつも、ここで断るわけにはいかない。
「あ、ぜひ」
応えると、厚い眼鏡レンズの向こう側で、彼は一瞬だけ、笑ったように見えました。

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当日は京成線柴又駅で待ち合わせし、帝釈天参道を歩き始めました。
「よし、タニくん、ここの団子を喰おう」
この日のAさんは、コワモテの顔と声は変わらないまま、内容だけは優しく、柴又初見参の私に、参道や帝釈天のゆかりなどを説明してくれました。

渥美清の「男はつらいよ」では、元キャンディーズの伊藤蘭がマドンナを演じるシリーズ26作目が制作されていた頃です。

帝釈天の裏から江戸川べりに降り、矢切の渡しに乗船します。
「こんな渡し舟、今でもあるんですねえ!」
驚くと、Aさんはうれしそうに、
「そうなんだよ。観光用じゃないんだぜ。これを普通に通勤や通学に使ってる人も結構いるんだ」

徳川幕府は江戸を守るために川に橋を架けず、主に農民が往来する渡し船だったようです。

ちあきなおみの歌った「矢切の渡し」はシングル盤のB面だったために遠足の時点ではほとんど注目されておらず、A面シングルで発売されるのはこの2年後、細川たかしの大ヒットで日本レコード大賞を受賞するのはさらにその翌年でした。

この日の渡し舟も、私たち以外は「普通の乗客」ばかりのようで、「渡し賃」は当時のバス代と同じだった記憶があります。

「渡し」を松戸側まで渡った後は、「野菊の墓」文学碑を経て、松戸駅まで1時間近く歩きました。
その間も、Aさんは、これが矢切の水門、ここが昔の水戸街道、などと説明してくれました。

Aさんとは松戸駅で別れました。

当時の私は大学の友人や先輩後輩と酒ばかり飲む生活だったので、
・自分の倍以上の年齢の人と遠足をして、
・途中でビールも飲まずに団子を食べ、
・終点に着いた後も居酒屋にも入らずに別れる、
という《健全な1日》は奇跡的なことでした。
Aさんは下戸だったのかもしれません。
(昼食をどうしたのか憶えていませんが、それぞれが弁当と水筒を持参する、ということだったように思います。だとすれば、「野菊の墓」文学碑の前か、「渡し」の辺りで食べたのでしょう)

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その日を境に、私が工作室に依頼する仕事は、きわめて迅速に処理されるようになりました。
かなり無理なお願いをしても、
「仕方ねえなあ、タニくんに頼まれちゃなあ」
厚いレンズの向こうでニヤリと笑い、引き受けてくれます。

(また誘われるかな……)
と覚悟していましたが、「遠足」はその1回切りでした。

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修士課程を卒業してUターン就職した翌年、東京で開かれた学会に出席したついでに母校を訪ねました。

教授とひとしきり話した後、
「工作室にも顔を出してきます」
と言った私に、先生の顔色が変わりました。
「タニくんは知らなかったか! Aさんね、お亡くなりになったんだよ、去年の冬に……」

工作室にはもうひとり、40歳前後の技官がいましたが、この人が帰宅する時、Aさんはまだ作業中でした。
そして、翌朝出勤すると、Aさんは工作機械の横に倒れており、既にその体は冷たくなっていたそうです。

「Aさんはね、ずっと独身ひとりみだったんだよ」
同じ松戸市内に住む、教授が付け加えました。

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