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「清州でどうする!」で水練の川は五条川ではなく、庄内川?

ドラマ「どうする家康」がらみで昨日、清州城訪問記を載せました。

その中で、こんなことを書いています:

「清州でどうする!」の回では、清州城人質時代の回想シーンで、幼いお市が鎧を着たまま川に飛び込む「水練」で溺れ、家康が助ける場面がありました。
もちろん、ドラマ中のエピソードですが、あの川はどこか、と問えば、やはり城の前を流れる五条川でしょうか。

https://note.com/shunkanzenji/n/n4d93a1ce41b9

しかし、よく考えれば、信長が清州城に移ったのは1555年、家康は1547年から1549年の2年間、熱田にあった加藤順盛の屋敷に幽閉されています。この時期、信長は、父・信秀から那古野城を譲られ、城主でした。

那古野城については最近のがんちちさん訪問記があります:

従って、那古野ー熱田という、現在の名古屋中心からアクセス可能な当時存在していた河川、── というと、
《庄内川》ということになります。
上記《五条川》も庄内川水系ですが、かなり上流であり、人質時代の清州城には織田家の本家筋(織田大和守家;信秀・信長はまだここの分家・家臣に過ぎなかった)がまだ頑張っていました。

以上、訂正させていただきます。

なお、信長の人生で最大のピンチは、実は同母弟信行(信勝)と家督を争った《稲生いのうの戦い》です。
何せ、実母も有力な宿老(林、柴田)も「うつけ」を見限って品行方正なプリンス・信行に期待し、敵に回ったのです。

信長勢はわずか40人まで減り、絶体絶命 ── そこで信長が大声で怒鳴り、柴田勢が逃げて行って逆転!したそうです。
(信長は異常に大きな声の持ち主だった説があります)

この稲生いのう(現在の名古屋市西区)は、《庄内川》が西向きの流れを緩やかに南向きに変える場所にあります。
(実は今日、散歩しながら古戦場跡まで歩きました。その話はいずれまた)

もうひとつの候補は、名古屋の南東部を流れる天白川ですが、今川・松平連合に侵食されつつある尾張南東部では、安心して水練などできなかったのではないか、と思います。

もっとも、熱田の加藤家に幽閉されていた幼い家康と、元服を終え、1947年には今川方との戦闘にも参加している那古野城の信長が出会った、という記録は残っていないようです。

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