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よにでし読書会 5月31日開催 解説④

 今月の書籍:『ガンディーの真実』 
 開催日:2024年5月31日金曜日 20:00~22:00




ガンディーの真実


著者:間永次郎(はざま・えいじろう)
出版年:2023年
出版社:ちくま新書

リンク:

https://amzn.asia/d/eRU12Gs


▼▼▼「自分自身になる」▼▼▼


→P254~255 
 「私は自分の義務を考えました。「私は自分の権利のために闘うべきか、あるいは、インドへ帰るべきか。(……)私の身に降りかかった苦しみ、それは(……)深く根を下ろした一つの巨大な病の徴候に違いない。この巨大な病、それは人種差別である。その重い病を取り除く力があるならば、その力を使わなければならない。そのようにしながら、自らの上に苦しみが降りかかってくるならば、それらすべてを耐え忍ぶべきだ。そして、人種差別を撤廃するために可能な限り抗うべきだ。」」

 ここで、ガンディーが人種差別と闘う決意に至る過程で注目すべき点は二つある。一つが、ガンディーはこの時、イギリスの名門法曹院が提供する弁護士資格を持ち、自らが望めばいつでも危険な南アフリカを去って他の場所で仕事を見つけることが出来たということである。そして、当然ながら、それをすることが一番ガンディーにとっては楽な道だった。ところが、ガンディーはその決断を除外した。第二に、ガンディーの下した決断は自発的に「苦しみ」を被るものだったということである。通常、人間は自分の幸福や利益を求めて人生設計を行う。だが、ガンディーは徹夜で熟考したあげく、誰に強制されたわけでもなく、あえて自分から苦しみを引き受ける道を選んだのであった。

 この二つから言えることは、ガンディーが下した決断は、純粋な自己決定に他ならなかったということである。この自己決定は、個人の願望や生まれながらに備わる生存欲求を動機とした行動とは真逆のものだった。つまり、ガンディーを突き動かした「自己」は、通常感じられている表層的な自己意識の奥にある感覚・感情であったと言える。ガンディーはこれによってはっきり自分が今後何をすべきかという「義務(ダルマ)」を理解した。この自らの心の深い場所から沸き起こる感覚・感情を動機とした義務の発見こそが、ガンディーの人生に一大転機をもたらしたのであった。マリッツバーグ駅の夜、人種差別にに闘う決意を自ら下した瞬間に、ガンディーは「自分自身」になった。


、、、南アフリカで白人にリンチされ、
人種差別の現実を知ったことはガンディーにとって「啓示」でした。
その現実を知ったガンディーは将来、どう生きるかに悩みます。
南アフリカに留学して弁護士資格を持っているガンディーはエリートです。
インドに帰っても良い仕事に就けるでしょうし、
イギリスで働くことだって可能だったでしょう。

しかし、世界が「重い病=人種差別」に罹っているならば、
私は自分の能力と人生を、
この病を取り除くために使わねばならぬのではないか、
と彼は悩んだ末に決断します。

徹夜の懊悩でした。

私はイエスのゲッセマネの園を想起します。

著者が指摘するように、
「自己決定」つまり「自分自身になる」とは、
「進んで苦しみを引き受ける」ところに表れるのではないでしょうか。

ある人がもし、
本来稼げるよりも給料が低かったり、
本来住む場所よりも危険だったり、
本来得られる安心や快適には反するような環境に身を置いてでも、
自らの「使命」と信じる仕事に就いていたり、
生き方を選んでいたりした場合、
それは純粋な「自己決定」と言えるのではないか。

ガンディーの決断も、
「進んで苦しい道を選ぶ」
というところに彼は真理の光を見ていました。

妻はお母さん(私の義母)から、
「道に迷ったら、
 楽じゃない方を選びなさい」
と言われたと教えてくれましたが、
この考え方はキリスト教的にも重要だと思います。

世の中ではもちろん、人気はないですが。


▼▼▼本当の自分になることと社会の多様化▼▼▼


→P259~261 
 だが、このようなガンディーの言葉を考えるに当たって決して看過できないことがある。巷で言われている「本当の自分」を求める行為は、社会における価値の多様化を助長する風潮と合致する。一人ひとりがありのままにいきられるようになることであり、それ自体は素晴らしいことである。だが一方で、個々人が「本当の自分」を求めれば求めるだけ、社会は結束力を失い、バラバラに解体する方向に向かう。また「本当の自分」を求めることによって、しばしば他者を傷つけてしまい、最悪の場合それは社会の暴力的対立を生み出してしまう。「個人の幸福の追求」と「公共の福祉」との間にある不可避な緊張をどう解決するかという問いは、現代社会における究極の難題である。

 この点で、ガンディーが果たした「本当の自分との出会い」はきわめて興味深い帰結をもたらした。というのも、ガンディーが「本当の自分」を追求する中で起こったことは、他者との分離どころか、むしろ他者を引き寄せる吸引力の増大だったからであった。ガンディーが「本当の自分」を追求すればするほど、ますます周囲の人々がガンディーのもとに集まってきたのだった。彼の行った「本当の自分」の追求は、逆説的にも自発的に苦難を被るという意味での非暴力の実践と表裏一体だったからである。
 (中略)
 まさにガンディーは「自分自身」になることで、ノーベル文学賞受賞者のロマン・ロランの言葉を借りれば「普遍的存在(the universal being)」に至った。この「自己=魂(アートマン)」の発見こそが、世界中に影響を与えることになったガンディーのサッティヤーグラハとしての非暴力の思想を理解する鍵だったのである。


、、、価値の多様化と社会の結束、
という二項対立/ジレンマこそ、
現代社会の最大の問題です。

ガンディーはしかし、
「本当の自分」にますますなることで求心力を得、
結果的には社会を結束させました。

社会を分裂させる「本当の自分」と、
社会を結束させる「本当の自分」の違いは何か。

ガンディーの言葉ではそれは、
「アートマン(魂=自己)」の発見ということになる。
つまり「普遍性」に基礎づけられた「本当の自分」か否かが、
多様性の中の一致をもたらす個性化か、
多様性の結果の分裂をもたらす個性化を決める、
ということになるでしょう。

しかしその判断は往々にして、
時間が経ってからしかできなかったりもします。
ガンディーは一時的には分裂をもたらしました。
黙っていれば英国と対峙する必要のなかった貧農を、
非暴力によって蜂起させたわけですから。
マーティン・ルーサー・キングも同じです。
彼が黙っていれば、
これまで通り「黒人を差別することによる平和」は保たれ、
「不要な対立」は避けられたと考える人も当時はいたでしょう。

しかし時間がたつと、
ガンディーやキングの「アートマンの発見」は、
結果的に平和と一致につながるものだったことを、
後の世の我々は知っているわけです。

自らの「個性化」が、
普遍性を持つかどうか、
もっと言えば「愛」に基礎づけられているかが、
私は重要なのかなと思います。


▼▼▼自己中心的利他性▼▼▼


→P270~271 
 このように、ガンディーが「本当の自分との出会い」を果たしていく中で、「普遍的存在」に至ったという時に、注意しなければならないことは、その至り方であり、その過程の中で他者の痛み・苦しみ・不満の叫びはガンディーの自己から少なからず遠ざけられてしまったことである。ガンディーの影響力の拡大は、自己と他者との水平的な相互交流によって起こっていったのではなく、あくまでガンディーという巨大な魂の後ろに追随する他者という形で、一方的に起こっていったのであった。このような傾向は特に後年のガンディーの思想・実践に顕著に見出される。ここにガンディーの「本当の自分」を求めるサッティヤーグラハにおける看過できない「暴力的な」自己中心性が見出されるのである。

、、、ガンディーという人物は「食えない人」というか、
一面的理解ではとうてい追いつかない多面性を持っています。

彼は「サッティヤーグラハ(真実にしがみつく)」ということを、
結果的には家族を傷つけてまで求めていくことになります。
常人には理解できない論理により、
自らのサッティヤーグラハの度合いに応じて、
宗教対立が深まったり弱まったりする、
みたいな信念のもとに断食や「業」を重ねていく姿に、
家族は常に振り回されます。
というか「誰もついて行けない」。

「暴力的な」自己中心性と著者は書いていますが、
まさに彼の求道心というのは、
暴力性をも秘めているというエピソードが数多いのです。

もしかしたら彼は「自閉症スペクトラム」なところがあったのかなー
なんてことを私は邪推したりするのですが、
じゃあ彼からそういった「毒」を抜くと、
おそらく人類史で最大級の社会変革者としてのガンディーもまた、
存在しないのではないかとも思う。

昨年出版されたウォルター・アイザックソンによる伝記、
『イーロン・マスク』を近頃読みましたが、
イーロン・マスクは明らかにアスペルガー症候群です。
自らで公表しているほどですし、
もう、家族・社員にとっては「地獄のような人間」です。
9割の人が振り落とされる。
今残っている1割の人も、
長期的には振り落とされるのではないかと伝記を読むと思える。
あり得ないほど気分屋だし、
あり得ないほど自己中心的だし、
あり得ないほど御しがたい。
彼に殺意を持っている人は数知れずだと思います。

アイザックソンはそれでも、
マスクからアスペルガー的弊害を除くと、
おそらく「21世紀最大のイノベーター」のマスクもやはり、
いなくなるのだろう、と書いています。

「偉人」のそばにいるのは、
大変だと我々凡人は知る必要があるのです笑。


▼▼▼思考の批判的継承▼▼▼


→P271~272 
 これまでの本書の議論全体を鑑みた上で、21世紀の現代において重要なことは、ガンディーの非暴力思想の盲目的受容ではなく、その批判的継承にあると言えるだろう。実のところ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ネルソン・マンデラ、アウンサンスーチーに代表される20世紀後半以降のガンディーの思想の重要な継承者たちの多くは、ガンディーの思想に対する良き批判者でもあった。ガンディーの思想の批判的継承は、ガンディーの思想に対する入念な研究や考察によって初めて可能となる。
 興味深いことに、ガンディー自身の思想を批判的に捕らえる必要性は、ガンディー自身が語っていたことでもあった。ガンディーは生前に自らの思想をドグマ化することの危険性に警鐘を鳴らして、弟子たちに対して次のように語っていた。

 〈「ガンディー主義」といったようなものは存在せず、私の後にいかなる宗派もあって欲しいとは思いません。私は何か新しい原理や教義を作り出したとは主張したくありません。私は単に自分のやり方によって、不変の真実を日常の生活や問題に適用しただけなのです。(……)私の意見は決して最終的なものではありません。よりよいものがあると分かれば私は明日にでもそれを変更するでしょう。(『魂の巡礼』1960年)〉

 ガンディーの思想はそれ自体、異なる時代や社会状況に応じた絶えざる修正・変容の必要を求める自己批判の精神を内包するものなのであった。
 とはいえ、自らの誤謬がありうる可能性を「語っていた」ガンディーであったが、すでに見たように、彼自身が自らの思想のどこにどのような誤謬があったのかを「理解していた」わけではなかった。ガンディーの思想の限界を詳細にあぶり出していく作業は、ガンディー没後の時代に生きる私たちに遺された重要な課題である。


、、、「思考の批判的継承」が大切だ、と著者は最後に語ります。
ガンディーの思想を継承した20世紀の偉人たちは、
「ガンディーのコピー」になるのではなく、
ガンディーの思想や実践を一度抽象化し、
その中の良きものを継承し、
批判されるべきところは批判する、
という形で継承していった。

これがとても大切で、
ガンディー自身も「自分のコピーになるな」と語っているわけです。
しかし、ガンディー本人には批判されるべき部分が何かが見えていない。
これがガンディーという人の自閉性なのですが、
少なくとも彼には「自分は完全ではない」ことも見えていたし、
自分のやり方がすべてではないことも見えていた。
彼の思想はだから「開かれて」いた。

トーマス・レーマーという人が書いた、
『ヤバい神(原題:隠された神)』という本を、
私はプレミアム放送で紹介しました。

レーマーさんは言います。
実は聖書は、聖書の内部で解釈の変更を行っていると。
レビ記10章に出てくるエピソードをレーマーさんは紹介していますが、
つまり聖書が「自らを常に再解釈・再定義し続けよ」と言っている、
と言えないだろうか、と。

イエスが福音書の律法学者との論争でしていることも、
じっさいは「律法の再解釈」ですよね。
安息日の労働の定義/ローマへの税金の解釈/手を洗って食べること
こういった「神の言葉」を字義通りに解釈するところから、
「神の意図」から考えて結論を出そうよ、
という「再解釈」をイエスはしているわけです。

イエスの弟子であるところのキリスト教徒が、
「再解釈などまかりならん、字義通りだ!」
といっているのは、なんとも滑稽に私には思われます。
イエスのスピリットの継承者として、
私たちはガンディーに対してマンデラがしたように、
その「愛という真理」を現代に現前すべく聖書を読むべきではないか。
私はそう思っています。


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