せ 「聖書」
別に振りかぶって言うことではないけど、僕はクリスチャンだ。クリスチャンがクリスチャンじゃない人と違うところはたくさんある。日曜日に教会に行く。収入の十分の一を献金する。毎朝祈る。食事前にも祈る。車に魚の形のステッカーを貼りがち。子どもに聖書にちなんだ名前つけがち。礼拝の途中ですでに週報なくしがち。知り合いの知り合いは必ず知り合いでありがち。名前忘れた相手には「兄弟・姉妹」と呼んでお茶を濁しがち。「いやいや兄弟、こんなところで会うとは! 元気でしたかー」、温泉や銭湯でそれをやるとそっちのスジの人と間違われがち。
「クリスチャンあるある早く言いたい」をやってたらきりがないのだが、やはり「聖書読みがち」は、「クリスチャンあるあるの王」ではないだろうか。僕が探偵で「犯人がクリスチャンかどうか」を推理するとなったら、その人の家に聖書があるかどうか、そしてその聖書が使い込まれているかどうかを調べる。「ははーん、分かりました。犯人はクリスチャンですね。詩篇のところだけ長年の手垢で黒くなってる。使い込んでる証拠です」。
僕もまた聖書は読んできた。死ぬほど読んできた。18歳で洗礼を受けてから、大学時代だけで多分10回以上は通読している。1日10章読む、っていうのをやっていた時期も長かったので、その期間だけで年に3回は通読してるわけだから。ハーレーの聖書ハンドブックをはじめ、コンコルダンス(語句集)や注解書のたぐい、英語の聖書などを机におっ広げて聖書研究をしていた。教会学校や教会の中高生会でメッセージをする前の日はほぼ徹夜でいろんな資料を読んで準備した。
今もその経験は生きていて、聖書の意味を歴史的・文脈的に解析し、立体的に把握していく「釈義」を僕は神学校で正式に習ってはいないが、「釈義的に正統かどうか」という質問が何を意味するかは分かる。だから、「こう釈義することはどうなんでしょう?」と、師匠の神田先生に時々確認することもできる。あと、最近だとBible Hub という神みたいなサイトがあって、そこで逐語的にギリシャ語やヘブル語を参照することができて、その単語が聖書の他のどの箇所で使われているかも知ることができる。昔なら何万円もするギリシャ語・ヘブル語のコンコーダンスや、何10万円もするそういった類いのソフトウェアでやってたことを、今は無料でオンラインでサクッとできる。
でもやはり、紙の聖書は特別だろう。「タンジブル(手に取ることができる)」という英語があるが、まさにタンジブルな聖書は特別なのだ。とはいえ代々伝わる牛革の聖書、みたいな趣味はなくて、聖書はあくまで「道具」と思っている。消耗品なのだ。道具だからといって大切にしないわけではない。野球選手はグローブを大事にするが、けっこう時々買い換える。バスケ選手はシューズを大事にするが、シーズンで何足も履きつぶす選手もいるだろう。僕にとって紙の聖書はそんな意味において大切な道具で、「読み潰す」ことにこそその意義があると思っている。
今の僕の聖書がもう「何代目」かは忘れた。20は行かないけど、10よりは多い、という感じだろうか。今は「新改訳2017」と「聖書協会共同訳」の2冊を座右に置き、毎朝その2つを読み比べてデボーションしている。時期によっては「聖書協会共同訳」がハーレイの聖書ハンドブックになったり、新聖書注解になったりもする。新改訳が基軸なのは、僕がこう見えて福音派のクリスチャンだからだ(どう見えてるのかは分からないが)。心はかなり福音派なのだ。ハートは熱く、頭脳はクールに。これが大切。ハートは冷たいくせに、頭脳はファンダメンタル的に熱くカッカして非ファンダメンタルを叩くことに勤しむ。これ最悪。前者のタイプの福音派のクリスチャンと出会うと僕は嬉しくなる。そういう人の聖書は大抵手垢で真っ黒になっている。
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