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父と自転車とヘルメットと

ルール破っても
まあまあまあまあまあ
マナーは守るぜ
まあまあまあまあまあ
まあまあまあまあ
まだまだ行けるぜまあ
  ―――甲本ヒロト(緑のハッパ)


▼▼▼父のバイク▼▼▼


自転車のヘルメットをかぶることが、
4月から法律で「努力義務」になった。
僕は妻の勧めでヘルメットは去年購入していたが、
本当に付け始めたのは4月以降だ。
OGKっていうメーカーの、
羽毛のように軽いやつで、
つけていることを忘れるぐらいだ。
知らないうちにヘルメットも「進化」していた。

あまりにも軽くて、
かぶったままなのを忘れて、
駅に上る階段で窓に映った自分を見て、
「ヘルメットかぶっとるやんけ!」
となり、駐輪場まで戻ってヘルメットを置き、
また駅に戻る、という失敗をしたこともある。
ヘルメットのせいで電車を一本乗り過ごした。

でも、あと何十年か経ったら、
「自転車のヘルメットかぶってない時代があったらしいよ」
「マジで!」
「ウソでしょ!」
という、「おじさん世代 VS 若者世代」の、
テレビ番組が放映されているだろう。
そのときに「テレビ」という概念があるのかは不明だが。
ちなみにその「おじさん世代」とは、
今のZ世代のことだ。

万物は流転するのである。

原付を含むすべてのバイクのヘルメット義務化は、
なんと1986年、僕が9歳のときなのだ。
そういえば昔、スーパーカブに乗っているノーヘルのおじさんを、
見たような見なかったような。

ひとつ記憶していることがある。
父は僕が小学校低学年のころまで、
バイクを所有していた。
いつ乗っていたのかは不明だが、
愛知県知多市の社宅の駐輪場に父のバイクはあった。
カバーが掛けられており、
いつもホコリをかぶっていた。
ジョロウグモが巣を作っていることもあった。

そんで、僕が記憶する限り一度だけだが、
父が僕をバイクに乗せてくれたことがある。
父はカバーをとり、ホコリとジョロウグモを払い、
当時小学校3年生ぐらいの僕を、
バイクの後ろに乗せて、
「つかまってろよ」と言って、
近所のグラウンドへ向かった。
そしてそのグラウンドを何周かして、
また社宅に帰ってきた。

そのときに父がヘルメットをしていたかどうか記憶はないのだが、
あのバイクは原付ではなかったから、
ヘルメットはすでに義務化の後だっただろう。
しかし、公道を走らないためにグラウンドに行ったかもしれないこと、
そして父の性格を加味すると、ノーヘルだった可能性も十分ある。
父は「自分が納得しないルールを守るのが大嫌い」な人間だったからだ。

僕もそのDNAを引き継いでいる。
明らかに不合理なルールを守ることを強要し、
「ルールだからルールなのだ」みたいなことを言うヤツがいたら、
泣くまで問い詰めてルール自体を変える方向に僕は持って行く。
相手が年上だろうが上司だろうが関係がない。
徹底的に戦う。
よしんば相手が僕を説得してくれたらそれで納得する。
握手して、抱き合って、それ以降ルールは守る。
そのときはしっかり、徹底的に守る。
守らないヤツを守らせるぐらいの擁護者になる。
そしてそいつに合理的に理由を納得させてあげる。
だけど、納得させられないなら、
やはりルールのほうがおかしいということだ。
「陣内君だけはルールを守らなくて良い」
という特例を作らせたことも僕は何度かある。

そういう人間は日本の組織では出世できないと決まっているから、
フリーランスである今が僕にとっては心地よい。
阿呆みたいなルールと付き合う必要がないのが、
組織を離れる最大のメリットだと思う。
こういう人間は集団主義の日本社会ではとかく生きづらいし、
じっさい周囲は迷惑しているのだろうが。
でも、これは僕のせいじゃない。
陣内学のせいだ。
あいつのDNAが全部悪いのだ笑。
遠い先祖が渡来人だったのかもしれない。

話を戻そう。

父は僕をバイクの後ろに乗せ、
誰もいない近所のグラウンドを何周かして、
そして家に帰ってきた。
何かを話した記憶はないが、
何かは話していたのだろう。
僕はそのときの父の背中の感覚を、
今でもよく覚えている。
あの背中のデカさ、広さを、
僕は今もはっきり思い出すことができる。

今は亡き父との思い出というのは、
「夏休みに遊園地に行った」とかじゃなく、
案外、こんなことだったりするのだ。


▼▼▼ある年末の出来事▼▼▼


「ヘルメットとルール」でいうと、
もうひとつ父に関して思い出がある。

あれは岡山に引っ越した後だから、
僕が5年生か6年生のころだったと思うのだけど、
父は忘年会で泥酔して自転車で家に帰った。
岡山県人にしか分からないかもしれないが、
岡山には数多くの「用水路」がある。
幅は1~4メートルと様々で、
深さも1.5~3メートルと様々だ。
でも、浅いものでも子どもがすっぽり入るぐらいには深い。
岡山は「晴れの国」と言われるぐらい、
全国でも日照時間がもっとも長く、
つまり雨が少ない。
香川県にため池が多いのと同じで、
岡山の用水路は、
慢性的な水不足解消のための、
生活の知恵なのだ。

そしてそれらの用水路には「落ちないための柵」みたいなものがなく、
2メートルぐらいの幅のやつだと、
子どもがそこをジャンプして遊んだりしてるし、
車が片輪落ち込んだりすることもある。
岡山以外に住んでると、
なんて危険なんだ!
って思うんだけど、
それが風景の一部になると、
けっこう普通になってくるのだ。

そんで、父・陣内学は、
ある年末に忘年会の後に、
痛飲した状態で自転車にまたがり、
ふらふらと家路についた。

この時点でいろんな「フラグ」が立っている。
何かが起きそうな雰囲気が立ちこめている。
ゾンビ映画で家族の話をし始めたやつはまもなく死ぬ、
っていうやつだ。
「死亡フラグ」だ。

いや「落下フラグ」だ。

皆さんのご期待に応え、
陣内学は用水路に落ちた。
頭に20針近く縫う怪我を負った。

これはなぜかまったく分からないのだが笑、
母はまったく同情していなかった。
私を含め子どもたちも、
おそらく会社の同僚たちも同情していなかった。

・呆れ=60%
・迷惑=35%
・心配=5%
・同情=0%

という感じの配分だったのではなかろうか。


▼▼▼迷惑な父▼▼▼


話はまだ終わらない。
忘年会だったゆえ、
父は会社を休むことなく、
頭に包帯を巻いた状態で会社に出社した。
当時の父は「同期で初めての課長」みたいな形で、
きわめて若い管理職として抜擢され期待されていた。
けっこう優秀だったのである。
でも、忘年会→救急車→病院 ですから、
一緒に飲みに連れて行った部下たちにも、
連絡網みたいな形で情報は流れており、
皆さん、年末年始の休みを安心して休めなかったはずなのですよね。
迷惑な話だ。

ほどなくして、
この事件は会社全体に知れ渡るところとなった。
会社は新しいルールを作った。
今でいう「コンプライアンス」みたいな観点で、
外部から批判されることを恐れたのだろう。
「自転車を運転するときは全員、ヘルメットをかぶるように」
とのお達しだった。
かくして欲しくもないヘルメットが、
会社から支給されることになった。
時は1988年頃、原付のヘルメットでさえ、
まだ徹底されていない時代だ。
迷惑な話である。

まだ話は終わらない。

父は人と比べて異常に頭が大きい人だった。
普通の帽子がいつも入らない。
会社から支給されるヘルメットのXLも父には入らず、
会社は父のために「特注のヘルメット」をつくり、
そして父にはそれが支給された。
この迷惑なルールの元凶となった人物が、
もっとも面倒をおかけしているわけだ。
どれだけ迷惑をかければ気が済むのだ。
迷惑の上塗りだ。

輪島塗でもそこまで上塗りしない。

あの年の年末からしばらく、
関係者がこの事件のことを忘れるまで、
母は社宅で前を向いて歩けなかったという。
すれ違う人に全員土下座して謝りたい気分だったという。

当の陣内学は、
まったく反省しておらず、
その後も多分ノーヘル運転を続け、
泥酔して家に帰ってきていた。
「迷惑をかける」とか、
そういう意識はないらしい。
「いや、俺が会社に頼んだわけじゃないし」
っていうのが父の理屈になるんだと思う。
正論といえば正論なのだが、
本当に困った人だというのも事実。

多分さすがにこれは言ってないと思うが、
「っていうか労災おりるんですか?」
っていうぐらいの気持ちだったかもしれない。
知らんけど。
おりるわけがない。
会社側に立てば、
逆に何かしらのペナルティを支払ってもらいたい気持ちだっただろう。
それでもクビにもならず降格も処分もされないのだから、
会社は陣内学を必要としていたということだ。
それだけ余人を持って代えがたい人材だったのだろう。

たしかに、余人を持って代えがたい、と思う。

なんか、全体的に、
昭和の野球選手みたいな話だ。

今の時代ってこういう人は、
もう組織に置いてもらえないのかもね。
昭和はおおらなかな時代だったのだ。

僕の中にも、
昭和の野球選手が住んでるってことで、
令和の時代、
このやっかいなDNAと息苦しい今の世の中に、
どう折り合いをつけていくか、
僕はひそかに悩んでいる。
父が解決せずに死んだ「難問」の続きと、
僕は今も格闘しているのだ。

おわり


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参考文献および資料
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・THE BLUE HEARTS『緑のハッパ』


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