年間300冊本を読むと見えてくること 第一話

どうも僕です。

僕はわりと、というかかなりたくさん本を読みます。
年間300冊ぐらい読んでいます。
しかも、目を通すという「スキャン」的な読み方はあまりせず、
わりとしっかり読んでます。

毎日2~4時間ぐらいを読書に充てています。
少ない日でも1時間は読みますし、
多い日は6時間とか8時間とか、9時間読む日も、
時々あります。
もうこれは「半分以上仕事」と割り切っているので、
その時間はどうにか捻出しています。

でもこれは結構簡単。

具体的には、
・テレビをまったく見ない。
・スマホを持たない。

この2つを実践すると、
だいたい一日4時間ぐらいの余剰時間が、
どんな人でも作れますから。

そのほとんどすべての時間を、
僕は読書に充てている、ということです。

20代で公務員をしていたころから、
月に5~10冊ぐらいは読んでいたのですが、
30代でかなりその冊数は増え、
鬱病療養のときに、
「まったく活字を受け付けない時期」と、
「活字に浸ることで治癒効果が得られる時期」が、
3ヶ月置きに訪れ、
そして、今は月に20~40冊ぐらい読むようになった。

、、、今日話したいのは、
「どうしたら本をたくさん読めるか」
という話ではありません。

べつに、たくさん本を読むこと自体は、
自慢できることでもなければ、
目指すことでもないですから。

読書は方法であって、
目的ではありません。

では、目的とは何か?

2つの角度から語れます。

一つ目。
目的は「教養」を得ることです。

では、教養とは何か。
僕の定義はいつもこれです。

「教養とは、人の気持ちが分かること」


読書をすることで、世界が広がります。
自分がいかに「井の中の蛙」だったかを、
本を読めば読むほど知ります。
年間300冊読んでも、
やはり読めば読むほど「大海を知らなかったなぁ」
と思いますし、
年間1000冊読もうが、
10000冊読もうが、
読めば読むほど、「大海を知らなかった」ことを知るのです。

ちゃんと本を読んでいればそうなります。
ソクラテスはこれを「無知の知」と呼びました。
知識を得れば得るほど、
増えるのは知識の量ではなく、
「無知」の量なのです。

つまり、ものを知っている人ほど、
「自分はものを知らない」と思い、
ものを知らない人ほど、
「自分はものを知っている」と思う。
知識、というのはこういう風に構造化されているのです。

、、、で、知識を得れば得るほど、
「自分が知らなかった世界」を知るわけじゃないですか。

昔、アメリカで黒人がどのように差別されてきたか。
明治の日本人はどんな生活をしていたのか。
伊藤博文はどんなことで悩んだのか。
リンカーンの苦悩とはどのようなものだったのか。
古代人はどのように物事を考え、
なぜあのような「神話」を生み出したのか。
今の社会の指導者はどのような経歴を辿り、
今の地位を得、そして彼らは何をしようとしているのか。
アメリカ人の白人コミュニティはどれほど追い詰められており、
そのバックフラッシュとしての怒りが、
どのようにトランプ現象を生んでいったのか。

こういったことを知れば知るほど、
「自分とは違う文脈を持つ誰か」にとって、
世界とはどういう場所で、
彼らは何を感じ、何に悩み、どう痛んでいるのか、、、
そういったことが分かるようになります。

そうすると、軽々しく、
他者にレッテルを貼ることができなくなります。

相手の立場に立つことができるようになるからです。

その人は何かを断定することを避けるようになります。
そういう人のことを「教養のある人」と僕は呼ぶのです。

突然ですが僕はキリスト教徒です。
キリスト教徒の信仰的実践として、
僕は読書をしています。

なぜか。

イエスは「隣人を愛せよ」と言いました。
パウロは「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣け」
と言いました。

これらを実践するのに必要なのは、
「コンパッション」です。
日本語で「共感」と訳されますが、
パッションには「十字架の苦しみ」という意味もあります。
コンーパッションというのは、
「共に十字架の苦悩を苦悩する」という意味でもあります。

それをするのに、
他者の気持ちになってものごとを考える、
「教養」が不可欠だと思うからです。

幸い僕はディスレクシア(先天的に文字が読めない障害)でもありませんし、
日本では自由に本を読めるという幸いな環境があります。
だとしたら、それをせずにいるのは、
キリスト者としての責任を放棄していることだ、
と僕は思っているのです。


もう一つの角度から論じてみましょう。

先ほどの話と矛盾するようですが、
究極的には本を読むのはそもそも、
「何かのため」ではありません。

面白いし楽しいから読むのです。

スマホをいじっているより、
SNSをしているより、
テレビを見ているより、
僕は本を読んでいる方が、
何百倍も楽しいと、
心の底から思っています。

だから本を読んでいるのです。

おいしいごはんを食べている人に、
「なぜ、あなたは食べるのですか?」
と聞くのは野暮というものです。

「美味しいから」に決まってるじゃないですか。
「食べることが幸せだから」ですよ。

もちろん、栄養を摂取するためとか、
会食で人と交流を持つためとか、
いろいろあるかもしれませんが、
究極的には「おいしいから」です。

読書も同じです。

教養を得るとか、
長期的に仕事に役に立つとか、
もちろんいろいろあるのですが、
一番の理由は「楽しいから」です。

今まで知らなかったことを知ったとき、
人は、本当に「わくわく」します。
「世界って、こんなに広いんだ」
「自然界って、こんなにも神秘に満ちている」
「人の社会って、面白い!」
「歴史って、知れば知るほど興味深い」
そういった知的好奇心のことを、
「センス・オブ・ワンダー」と名付けたのは、
『沈黙の春』を書いた、
レイチェル・カーソンですが、
このセンス・オブ・ワンダーこそが、
本を読む理由です。

これは無上の喜びです。

本当に。


、、、で、気づけば年間300冊読むようになっていました。
9割は図書館で借りています。
1割はKindleか紙の本で買っています。
それでも年間30冊本を買っていますから、
普通の人よりは出版界に貢献してるでしょう。

僕の読み方は、
本当に「雑読」です。
あらゆるジャンルの本を読みます。
タレント本から神学書まで。
経済の本からエッセイ本まで。
SFから文芸批評まで。
歴史学からホラー小説まで。
ビジネス書から古典哲学書まで。

たぶん読まないジャンルは、
存在しないんじゃないでしょうか。

でも、読む「法則」はあって、
これは「芋づる方式」です。
「テレフォンショッキング形式」と言っても良い。

ある本を読む。

そうすると、
他の本の内容が引用されています。
引用されている本が面白そうだと思えば、
その引用元の本を次に読み、
その本にさらに引用されていた本が面白そうだと思えば、
それを読み、、、
というように、数珠つなぎに読んでいきます。

そういう数珠つなぎを常時3~4系列ぐらい持っていて、
結果的に常に10冊ぐらいの本を同時に読んでいく感じです。

「笑っていいとも」の、
テレフォンショッキングで、
無限に次のお友達を紹介していくように。

このやり方の良いところは、
「底本」に当たりやすいことですね。

引用回数が多い本というのは、
かならず「何か」ある。
そしてその何かある本でも、
さらに複数回引用されている本、、、
というふうに辿ると、
たいてい「底本」に当たります。

「底本」というのは、
そのジャンルで本が新しく書かれるとき、
ほとんどの著者が引用する、
つまり「元ネタ」みたいな本です。

メディア論なら、
マーシャル・マクルーハンの『メディア論』がそうだし、
新自由主義経済学ならば、
ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』がそうです。

「底本」を一冊読むと、
そのジャンルについての他の本を読むスピードが、
3倍ぐらいに加速します。
ちなみに池上彰さんも、
この「底本」メソッドを採用している、
と読書の本に書いていました。

、、、さて。

ここまで書いて、気がつきました。
「年間300冊本を読むということ」については、
いっぱい語りましたが、
「年間300冊本を読むと見えてくること」
に関しては、まだ何も語っていなかったことに。

、、、というわけで、そう。

第二話に続きます。

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