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孤独で死ぬのはそんなに怖いことだろうか?

どうも僕です。

「孤独死が怖い」っていう報道って時々目にします。
でも、僕はあまりピンと来ない。
「孤独じゃない死」なんてないと、
どこかで思っているから。

だってそうでしょ。
家族や友人と一緒に、
いっせーのーでって、
オーバードーズの睡眠薬を飲んで死ぬ、
みたいなことをしなければ、
「孤独じゃない死」というのはないと思うから。
そして、「一斉に睡眠薬」のパターンの、
「(孤独死じゃない)集団死/連帯死」って、
アメリカのジム・ジョーンズ事件とかしかない。
それはカルト集団の集団自殺じゃないか、っていうことになる。
もしくは飛行機や自動車の死亡事故とか、
家事で一家全員焼け死ぬとか。

僕はひねくれているんだろうか?

ひねくれていることに異存はないのだけど、
でも、そうだと思いませんか?

きっと人々が「孤独死が怖い」っていうとき、
思い描いているのは僕がさっき言ったような、
「家事とか睡眠薬とか飛行機の墜落とか」ではないと思うんですよね。

「孤独じゃない死」というときに人が思い浮かべるのは、
病院のベッドの周りに妻が居て、子どもがいて、
みんなが自分の手を握りしめて、
男性ならば「おじいちゃーん!」とかみんなで泣いて、
眠るように死んでいく、、、
みたいな大往生的な何かだと思うんですよ。

でも、それって、
「孤独な死」に変わりはないんじゃないの?

と僕なんかは思うわけです。

やはり僕はひねくれているのでしょうか?

こう考えるのは僕の経験が多分関係しているんですよね。
僕は23歳のとき、父親を肝臓癌で亡くしました。
当時の僕は北海道で学生をしていました。
帯広畜産大学獣医学科の5年生。
毎日大学の農場で作業をし、
馬を飼ってる牧場に出向きサンプルを集め、
研究室の顕微鏡を覗き、
卒論を書いていました。

帯広の-10度の2月のある日、
母から電話がかかってきた。
「お父さんがガンになった」と。
そこからは早かった。
1週間ほど、血液型が家族で唯一父と同じ僕は、
「生体肝移植」のドナーになることを考慮した。
でも、考慮している間に、
「検査で移植は難しいことが判った」ということで、
その話も流れた。
その翌週ぐらいには、
「名古屋大学に入院しているから、
 愛知に帰ってきたほうが良い」と電話があった。

大学の学部長とか、
卒論の指導教官に伝えると、
「それはもう、行きなさい。
 大学のことは何も心配しなくていいから」ということで、
僕は飛行機で羽田に。
羽田から品川に。
品川から新幹線で名古屋に、
という道のりを急いだ。

それから、
当時実家があった父の社宅の愛知県知多市から、
僕と母と僕の弟の3人で、
毎日名古屋大学に通った。
あれが1週間だったのか2週間だったのか、
それとも1ヶ月だったのか、
あるいは3日間だったのか、
僕はまったく思い出せない。

そもそも、
そのときの「実家」の風景がまったく思い出せない。
人は非常時になると、
周囲の「ノイズ」が消えるみたいだ。
9回裏、ツーアウト満塁で、
次の球を投げるピッチャーの耳から、
スタンドの応援団の声が消えるみたいに。

でも、父の病室の様子は克明に覚えている。
父は信じられないほど痩せ、
毎日辛い検査をし、
腹水がたまっては抜き、
胸水がたまっては抜いていた。
呼吸が苦しそうで、
痛みに顔は歪んでいた。
恐怖も入り混じった土色の顔を、
僕は直視できなかった。

最後の日の最後の瞬間、
主治医が病室に来た。
心電図を表すオシロメーターが付けられた。
機械の音がした。
看護師が脈を取った。
父の呼吸がだんだん10秒に1度ぐらいになっていった。
医師は言った。
「○時○分、ご臨終です」
死亡確認書にその時刻を書き込む医者のボールペンの音がした。
姉が倒れた。
母が鳴き叫んだ。

僕と弟だけが、
悔しいのか苛立たしいのか腹立たしいのかわからない、
複雑な表情でその病室全体を睨んでいた。

あの期間、父は世界で最も孤独だった、
と僕は思う。

刑務所の独居房にいる囚人でも、
あのときの父ほどには孤独ではなかったと、
僕は今でも思うのだ。

あのとき、僕を含む家族は、
毎日父の病室に行き、
死ぬ1週間前にはまだ車椅子で公園を連れ回す元気もあった。
でも、僕は父に何を話して良いか分からなかったし、
父もまた、僕たちにどう接して良いか分からなかったと思う。
いや、父は、そもそも、
苦悶と苦痛に悶え、
自分の周囲の他者に何か話す余裕などなかっただろう。

この「同じ空気を吸いながら、
しかも同じ家族でありながら、
底知れぬ深淵が両者の間に横たわっている」

というあの病室の光景を、
僕はいまでも忘れることができない。

そして「旅立った」瞬間、
父は世界で一番孤独だったと思う。
そう、多くの人が「孤独じゃない死」としてイメージするものが、
僕の目には「最も孤独な死」として記憶されている。

満員電車で誰も話しかけてこなくても人は孤独じゃない。
夫婦で同じ部屋に住みながら、
二人の間を冷たい風が吹くときに人は本当に孤独なのだ。
僕を含む家族と、父の間に、
「越えられない深淵」が横たわり、
その深淵がオシロスコープによって確実なものとなった瞬間、
父は人生で最も孤独だったのではないかと僕は思う。

いや、人生で2回目の
「絶対的な孤独」だったのではないかと。

一度目はいつかって?


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