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クリスマスは教会へ


僕らは二つの時間を生きている。一つは線的時間で、
それは僕らに物語をもたらす。
もう一つは円環的時間で、それは僕らに日常をもたらす。
「線は人生に関わり、円は生活に関わる」
遠藤周作ならそう言うんじゃないかな。
   ――――東畑開人『居るのはつらいよ』


▼▼▼クリスマスイブのメッセージ▼▼▼


今日は12月24日、
クリスマスイブだ。

土曜日なので普段ならば僕の「安息日」で、
最高にチルな1日を過ごすところだが、
今年は練馬グレースチャペルで、
クリスマスイブ礼拝のメッセージをすることになっている。

クリスチャンじゃない人も多数来られるだろうから、
そういった人にも理解しやすいメッセージを語ろうと、
準備をする必要もあるので、
わりと「ON」の土曜日だ。
朝からダラダラするわけにもいかない。

というわけで、メルマガを書いたりして、
脳みそを温めている。

クリスマスは当然ながら、
イエス・キリストの誕生をお祝いする日だ。
誕生「日」は、多分夏だと歴史学者は言う。
当時の中東で羊飼いは冬に野宿することはなかったし、
長旅を要する人口調査も夏に行われたそうだ。
だからあの降誕劇のシーンは夏だったと考えて、
だいたい間違いないのだそうだ。

なぜ12月になったかというと、
ゲルマンの冬至の祭りが12月にあって、
コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教にしたとき、
「これは都合が良いじゃねぇか」ってことで、
このお祭りがイエス・キリスト誕生祭ってことにされた。

けっこうルーツはいい加減なのだ。

ルーツがどうあれ、
イエス・キリストの誕生「日」ではなく、
イエス・キリストの「誕生」を祝うことには、
とても大切な意義があると僕は思う。

だからクリスマスは大切だ。


▼▼▼竹の節▼▼▼


あと、コロナ禍で、
教会から「祝祭の要素」が激減した昨今、
クリスマスはことさら重要なんじゃないかと僕は思う。

昔から日本の伝統では、
「ハレ」と「ケ」という、
「二つの質の違う時間」をつくることで、
人間は、共同体は、竹の節をつくるように、
時を紡いできたのだと研究者は言う。

これは多分、
文化人類学的にいえば、
全人類に共通のことで、
だからユダヤ教には過越とかプリムがあり、
アイヌにも季節ごとのカムイを祭る儀式があり、
ネイティブアメリカンやピグミーもそれぞれに祝祭を持つ。

人は「竹の節」がないと、
時間を時間として感じることができない。
だからコロナ禍のこの3年を振り返るとき、
「あれは何年の出来事だったか?」
を思い出すことがみな困難になっている。
精神科医の斎藤環さんが note に書いていた。

竹の節がなくなったのだ。

そんな中、今年のクリスマスは、
各教会で、コロナ禍以前と遜色ないレベルの、
祝祭を催すことになったとちらほら聞く。
それはとても良い事だ。

もちろん感染対策をしたうえで、
イエス・キリストの誕生をお祝いすることは、
とても意味があると僕は考える。

HSPの僕は集団の中に身を置くことが、
非常に体力を削るため、「祝祭」は苦手だ。
というより、祝祭に伴う、
「立食パーティ的状況」が苦手だ。
誰に話しかけて良いかも分からず、
話しかけられても上手に受け答えできず、
最終的に部屋の角を見つめて涙目になっていることが多々ある。

苦手だ。
だけど重要だと認識している。

クリスマスを祝うことは大切だ。
それはキリストという恵みを噛みしめる上でも、
僕たちが人間として、
「二つの時計」を持つことを意識するためにも。

「個人の時間」と「共同体の時間」だ。

共同体の時間を取り戻すため、
僕たちはクリスマスを祝い、
年末年始を家族と過ごす。
僕はクリスチャンなので初詣には行かないが、
日本人が初詣に行くのにはそういった意味もある。
「ハレ」があることで「ケ」が意味を持つ。
絶え間ないオンラインの日常は、
時間を摩耗させ、
生きている実感を失わせる。

クリスマスはだから、
生きている実感の源泉でもある。
二つの意味で。
というわけだから、
クリスマスは教会へ。

終わり。



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参考文献および資料
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『日本は本当に「和の国」か』吉木誉絵
『”感染”した時間』斎藤環(note 2020年5月13日) 
『居るのはつらいよ』東畑開人
『キリスト教の”はじまり”』吉田隆

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