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こちらあみ子


そんな彼らですから、
「今の総理大臣は誰?」と聞いても、
安倍総理の名前が出てくる少年は滅多にいません。
しばらく考えて
「あ、先生、わかりました。オバマ(当時)です」と答えたりします。
そのような彼らに”苦手なことは?”と聞いてみると、
みんな口をそろえて「勉強」「人と話すこと」と答えました。
        ―――『ケーキの切れない非行少年たち』


▼▼▼こちらあみ子▼▼▼

『こちらあみ子』という映画を見た。
不思議な映画だった。
何の知識もない状態で観たのだが、
最初思ってた映画のジャンルと印象が途中で変わる。
中盤から「あれ? この映画って?」
って思う。
思ってたジャンルの映画じゃないかもしれない。

そしてさらに後半に、
「あれ、こういう映画なのか、もしかして」
と、中盤に思ってたジャンルとも違う映画になる。

じゃあこの映画がどのジャンルかというと、
どの引き出しにも収まらない。
『こちらあみ子』用の引き出しを、
新たに作らなければいけなくなる。

こういう映画が僕は好きだ。

観てない人には何の話?
ということになるのを分かった上で、
ヒントめいたものを出すと、
最初『漁港の肉子ちゃん』?
と思う。
次に『ジョーカー』?
と思う。
そして、いや、
是枝監督の『誰も知らない』か?
いや、そのどれでもない。
まさか、アンソニー・ホプキンス主演の近年の映画、
『ファーザー』か?

でも、どれもやはり違う。

作風は違うが、
フレーミングによっては近い作品が、
『星の子』だった。

……で、納得した。

『星の子』も、
『こちらあみ子』も、
芥川賞作家の今村夏子さんが原作なのだ。

今村夏子さんの芥川賞受賞作は、
『むらさき色のスカートの女』という作品で、
出版された2019年にKindleで読んだ。
とても不思議な作品で、
「歪んでいるのは話者(語り手)か?
 それとも世界か?」
という、認知的整合性を途中で揺るがしてくるような作品だった。

なるほどー、今村夏子さんはそういうことか、と。

芥川龍之介の『藪の中』という作品がある。
『藪の中』が原作の黒澤明監督の映画『羅生門』のほうが有名だが。
ひとつの出来事を複数の人に語らせた場合、
語り手の数だけ真実がある、というやつだ。

羅生門は英語になってて、
「Rashomon Effect(羅生門効果)」という。

〈Rashomon Effect:
ひとつの出来事において、
人々がそれぞれに見解を主張すると矛盾してしまう現象のことであり、
心理学、犯罪学、社会学などの社会科学で使われることがある。
映画『羅生門』に由来する〉とWikipediaにある。

哲学では「話者の誠実性」の問題として知られる。
『むらさき色のスカートの女』も、
『星の子』も、
『こちらあみ子』も、
ある特殊な状況におかれた人から見て世界が歪んでいる場合、
歪んでいるのはその人自身の認知なのか、
それとも世界そのものなのか、という問題を提示する。

ついでに『ファーザー』もそういう映画だ。
認知症の当事者からみたとき、
世界は「ホラー映画」のようなものだ、と。
突然知らない人間が、
なぜか自宅の鍵を持っていて、
平然と家に入ってくるんだから。
(その知らない人間はじっさいは、
 「自分の娘」だったりするのだけど)

++++ネタバレしたくない人はこの先読まないで+++++

++++++ネタバレ注意+++++++

++++++ネタバレ注意++++++

++++++マジで読まないで+++++++

++++やだなーやだなー++++++

+++++怖いなー怖いなー++++++

++++++ホントだよ++++++


▼▼▼境界知能▼▼▼


……これだけ結界を張っておいたから大丈夫だろう。
当メルマガの準レギュラー、稲川淳二の結界も張った。
だから大丈夫だ。

『こちらあみ子』の「語り手」、
主人公のあみ子は、
「境界知能」といわれる発達障害だ。
境界知能とは、知能指数が70~85ぐらいの人のことで、
知的障害者として特殊支援学級に行くわけでもないが、
普通学級には適応できていない、という状態の子。

宮口幸治さんという、
少年院の子どもたちに長年関わったお医者さんは、
犯罪を犯した非行少年たちの多くに、
この境界知能の子たちが多いのではないかと疑い始める。
ベストセラーになった、
『ケーキの切れない非行少年たち』は、
そのことについて書いた本だ。

宮口さんは非行少年たちに、
以下のような特徴があることに気づく。

・簡単な足し算や引き算ができない
・漢字が読めない
・簡単な図形を写せない
・短い文章すら復唱できない


▼▼▼世界の認知の仕方▼▼▼

『こちらあみ子』のあみ子も、
随所にそういうヒントがちりばめられている。
分かる人には分かるが、
分からない人には分からない。

勘の良い映画鑑賞者は、
序盤からじわじわ「もしかして」と思うのだが、
これが「境界」の難しいところで、
あみ子は家庭でも学校でも、
ちゃんとやれているようにも、
「よく見ていない人からは」見える。

だけどやはり、おかしいのだ。
あみ子は勉強や習い事や授業や遊びなど、
同級生の「言語ゲーム」に入れていない。
自分だけが違う世界で、
違う文法で生きている。
世界の認知のされ方が、
あみ子と家族、あみ子と友だち、
あみ子と学校の先生、
あみ子と社会では違うのだ。

あみ子は普通の人間とは違った様式で世界を認知している。
それが映画の中に印象的に差し挟まれる、
自然の生き物のカットに巧く表現されている。
カエルのアップ、
カマキリのアップ、
ヘビのアップ、
トカゲのアップ、
テントウムシのアップなどなど。
それはあみ子が「言語以前の認識」において、
自分の存在をそういった、
「社会の外にある世界」の一部と認識しており、
自分をそちらのカテゴリに入れていることの証左だろう。

それらが爬虫類や昆虫類であり、
哺乳類でないのは意図的だ。

あみ子本人も言語化できていない、
自らのこの社会における「異物性」を、
爬虫類との共鳴という形で監督は表現する。

、、、で、あみ子は、
なぜか知らないけれど自分の家族が苦しみ、
なぜか知らないけれど学校でも家でも、
自分に対して向けられる、
そこはかとない排除の視線を浴びる。
浴びるけれど、それが何なのか、
境界知能であるゆえに分からない。
言葉にできない。

言葉にできない異物感は、
あみ子に「脅迫的な幻聴」として立ち現れたり、
何かひとつのものへの異常な執着となって現れる。
周囲はそれによってますます困惑する。

だれも悪くない。

あみ子の本当の声を、
誰も「受信」できない。
本作に象徴的に登場するアイテム、
「トランシーバー」は、
あみ子と社会の間にある、
どうにもならない音信不通性をあらわす。

映画の中の大人に、
あみ子の境界知能ゆえの困難に、
真正面から向き合える人間はひとりも出てこない。
映画の登場人物のなかにはひとりだけ出てくる。
その少年と話すときだけ、
あみ子の一人称目線のカットから、
ふたりで対話しているというカット割りに変化することで分かる。
あの坊主頭の広島弁の少年、オトコマエだったなー。

あとひとり、
映画のフレームの外に、
あみ子と寄り添う人間がある。

ここからは究極のネタバレだ。

究極のネタバレだし、
これはパンフレットを読まないと分からない
(とライムスター宇多丸さんが言ってた)のだけど、
裏設定として、本作には登場しない、
あみ子の「生物学上の母親」がいる。
おそらくはこの世にはもういない。

この母親が、
天国から観ている映像、
それが『こちらあみ子』という映画なのだ。
エンドロールのラストに、
「もしもし」という女性の声が入るが、
それは、あみ子のトランシーバーを受信できる唯一の人物、
そしてこの世にはいない、
彼女の産みの母親の声だと気づいたとき、
鑑賞者は落涙する。

父親の再婚相手からは爬虫類のように気持ち悪がられた。
やさしい父親もついに疲れ果てさじを投げた。
庇護者だった兄も暴走族に入った。
転校して、唯一のオトコマエの友人もいなくなった。

でもね。
お母さんはちゃんと聞いてるよ。

あみ子のトランシーバーの片方がなくなっている、
というシーンは象徴的だ。
もう片方は天国のお母さんが持っている。

、、、という「救済」が描かれるのだが、
鑑賞者がそれを救済と受け取るかどうかはこちらに委ねられる。


▼▼▼社会がどう気づくか▼▼▼


もういちど、宮口幸治さんの、
境界知能の特徴を紹介しよう。

・認知機能の弱さ:見たり聞いたり想像する力が弱い。
・感情統制の弱さ:感情をコントロールするのが苦手。すぐにキレる。
・融通のきかなさ:何でも思いつきでやってしまう。予想外のことに弱い。
・不適切な自己評価:自分の問題点が分からない。自信がありすぎる、なさすぎる。
・対人スキルの乏しさ:人とのコミュニケーションが苦手
・身体的不器用さ:力加減ができない、身体の使い方が不器用

、、、このような子どもたちは、
きっと世界で「異物」と見られるだろう。
世界はこんな子どもを「問題」として扱うだろう。
しかし、彼ら彼女らにはちゃんと「世界」がある。
ユクスキュルの「環世界」みたいな話しに似ているが、
あみ子が生きている世界のレイヤーと、
我々が生きている世界のレイヤーは違うのだ。

そこに「響き合い」があってほしいと思うが、
そんなに簡単なことではない。
本当に難しい問題だが、
宮口幸治さんのように、
「コグニティブ・トレーニング」といったアプローチで、
サポートすることもできるだろう。

しかし多くのケースで、
当事者はあみ子のように、
「発見」されることもなく生きづらさの中に閉じ込められる。

、、、といった話しを僕がここに書けるのは、
80%ぐらい、ライムスター宇多丸さんの解説を聞いたからだ。
それまでは、ほとんど「読解」できてなかった。
だから、「何このクソ駄作映画」と
うち捨てる人もいるかもしれない。

万人には勧められない。

だけど、価値ある映画だと思った。

ライムスター宇多丸さんのラジオに寄せられたリスナーの感想で、
発達に偏りを抱えた当事者の方がこの映画を見て、
「あみ子は私だ」と思った、というのがあった。
その方は書いていた。
「そう。
 そうなの。
 切り取ってくれて、ありがとう」と。

ある種の問題は、
解決されなくとも、
言葉を与えられるだけで救われる、
ということがある。
問題化されるほどでもないが、
明らかに本人は生きづらさを抱える、
というような問題を抱えた当事者は、
切り取ってもらうことで、
少なくとも「存在」を認めてもらえた、
という救済感を得る。
おそらく今村夏子さんは、
そういうことをしたい人なのだと拝察する。

境界知能について興味ある人は、
この映画は観る価値がある。

僕の義理の弟(妻の弟)は、
特別支援学級の担任教師をしている。
この映画を見てどう思うか、
いつか機会があったら聞いてみたい。

そして当メルマガ読者の中には、
教育関係者の人が多い気がするので、
その人のなかにこの映画を見た人がいたら、
感想を聞いてみたい。

見る価値はある映画だと思う。
僕はAmazonビデオで500円課金して見ました。

よろしければ、是非。

*********
参考文献および資料
*********
・『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治
・映画『こちらあみ子』
・『星の子』今村夏子
・『むらさきのスカートの女』今村夏子
・『生物から見た世界』ユクスキュル



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