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パロディ『羅生門』①

森見登美彦の真似をしたかっただけ。

 ある日の午前のことである。一人の高校生が東福寺駅の改札口で雨やみを待っていた。
 朝のラッシュ時なら少し狭い改札口の中には、この高校生以外に一人もいない。ただ駅の窓口の中には二、三人の駅員がいる。学校や観光地の近くにある以上は、この生徒のほかにも近隣の私立高校の生徒や東福寺を観光する外国人が、もう二、三人いそうなものである。それがこの生徒以外誰もいない。
 何故かと云うと、この二、三日、京都には35℃を超えるような炎天下が続いていた。そこで盆地の暑さは一通りではない。天気予報によると不要不急な外出は避け、それでも出る場合は日傘や携帯型の扇風機などを持ち歩き、水分補給を欠かさずにするべきだと云う事である。天気がその始末であるから、日中は誰も屋外を歩いている者がなかった。するとその外の暑さを良いことにして、学校を休みにするべきだとごねる、冷房から離れられないと言い訳にして遅刻する。しまいには暑さを口実に作って自主的な一足早い夏休みを満喫する者さえ現れた。そこで、まだ涼しい朝の数時間を過ぎると、暑がって誰でも外に出かけるのをためらってしまうのである。
 こうも暑いと人どころか、野良猫や鳥も日陰を好み外には出てこない。夏の風物詩であるはずのセミさえも暑さに耐えかねて、元気に鳴くのをやめてしまうほどである。代わりに早朝と日が沈んでからの涼しい時間に昼の遅れを取り戻さんと元気に鳴き始めるのである。――もっとも今日は、暑さに加えて雨もあるので、夕方になっても鳴くことはないだろうし、ゲリラ豪雨による水害にあっているかもしれない。ただ、所々、窓の網戸にはセミの抜け殻が、不規則に並んでいるのが見える。セミが全滅したわけではないのだろう。高校生は改札の中にある3人がけのベンチに腰をかけて、外の雨を気にしながら、自動販売機で買った「いろはす」を飲んでいた。
 作者はさっき、「高校生が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、高校生は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、高校へ向かうべき筈である。所がその高校は、終業式と大掃除だけの予定である。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず暑い日が続いていた。今この高校生が、昼間暑さにかまけてだらっと過ごし、遅れを取り戻すように課題を徹夜で終わらし、寝坊して朝早くに出ることができずに遅刻をして、すでに日差しが強くなってから東福寺駅についたのも、実はこの炎天下の小さな余波にほかならない。
 それに学校に着いたとしても修了式は既に終わっており、めんどうな掃除をして帰るだけである。だから「高校生が雨やみを待っていた」と云うよりも「遅刻した高校生が、雨に降られてしまい立ち止まり、そのまま学校に向かうべきか否かを考えいた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この公立に通う高校生のダルさに影響した。朝の9時ごろからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。今外に出てもびしょ濡れになって学校に着く、かと言って雨が止んでから出ても汗でびしょ濡れになる。そこで、高校生は、どうせびしょ濡れになる運命をどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから東福寺駅にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、びしょびしょになって、笑い物になるか、いやらしい視線に晒され恥ずかしい思いをするばかりである。加えて、教師にだらだらと説教され、踏んだり蹴ったりである。どうせ濡れないように工夫するならば――高校生の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「ならば」は、いつまでたっても、結局「ならば」であった。高校生は、濡れないようにするという事を肯定しながらも、この「ならば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「いっそ学校サボっちゃうか。」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
 高校生は、天を仰ぎながら、制服をパタパタして改札のまわりを見まわした。こんなところに座っているのを見られたら、学校をサボっていると思われて、説教されるのが嫌だと思ったからである。すると、スマートフォンを取り出してみようと思った。スマートフォンを出して触っていれば、高校生が制服でいたとしてもどうせいま連絡しているところだと思うだけである。誰も声はかけてこまい。高校生はそこで、カバンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出して、画面を見られないように気をつけながら、パスコードロックを開けた。そしてInstagramのアイコンに指をかけた。
【つづく】

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