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世の中が、何故今のままだと駄目だと思うのか

先日、ゲンダイシュウラLABのオンラインサロンでフト投げられた質問。

「何故今の社会のままだと駄目だと思うのか?持続可能だと思わないのか?」

と。とても本質的で鋭い質問だと思った。

世の中は「地球温暖化だ」、「人口爆発だ」、「政治家の汚職だ」、など、悲観的なニュースで溢れている。知らず知らずのうちに、その悲観的なニュースに毒されて、自動反応的に「世の中は終わりだ」「今すぐ何かしないと」と自動的に思っているのか?

と。質問された気がした。本当にハッとする質問だし、とっても面白かった。だから、今一度何が問題だと思っているのか、を言語化しようと思う。

確かに、戦争だって何千年前からずっとやっているし、政治家の汚職も世の常だ。環境問題だって、時代時代によって問題があった。極端な例で言うと、人が里を作り始めた瞬間から始まっていると思う。わかりやすい例でいうと、もののけ姫とか?

いつだって、事実を正確に把握し、何が問題なのか?をしっかりと問いただす必要があると思う。ファクトフルネスではないが、世界全体で数値だけを見たら、実はそんなに悪くなっていない。

では、僕は何が問題だと思っているのか?

僕の中では大きく分けて2つある。「何を中心に意思決定しているのか?」と「知恵の断絶」である。

何を中心に意思決定しているのか?

皆さん個人は日ごろ何を中心に意思決定しているだろうか?そこにはいろんな思いや優先順位が存在していると思う。家族を中心に考えたり、お金を優先したり、見栄や地位などもあるかもしれない。

では、世の中全体的にはどうだろうか?現在資本主義という概念が世の中の常識になってしまった。中心は間違いなく民主主義でなく、資本主義である。

多くの会社や行政は、この資本主義の考えを中心に意思決定をしていると思う。

お金は大切で、お金を稼ぎ、儲けることは非常に重要であるが、意思決定の中心に置くことはあまり良いとは思わない。

なぜ、意思決定の中心にお金を置くことが良くないのか?それは、時間軸が違い過ぎるからだ。お金は日々、もはや毎秒、売った買ったを繰り返し、儲かった損した、を繰り返している。それを中心に考えると、毎秒、毎日、一か月、と、とても短いスパンでの意思決定が次々されていく。しかし、我々が暮らしている地球の時間軸はもっと長く、50年とか100年とか何万年とか、どう頑張っても人間は精力的に活動しているのが30年。

分かりやすい例を入れると、広葉樹や針葉樹など多様な生態系を保った森は、豊かな食料の宝庫にもなるし、海へのミネラルの供給源にもなるし、水の貯水場にもなる。これを作るのには100年以上かかる。しかし、お金が儲かるからと木をむやみやたらに切り、売りさばくのは一年で終わってしまう。ゼロになった森を戻すのはまた100年待たないといけない。

お金を中心に意思決定をすると、あっという間に営みの土台である自然のサイクルをぶっ飛ばして、消耗し消費し続けることになっていく。自分の目の前で起こっていなくても、世界の誰かや世界のどこかが歪みを一身に受け、そこから壊れていく。

資本主義は語源はcapitalism。都市中心主義ということだ。都市に資本を集中させ、その他の地域は都市のための生産工場。非常に自分勝手な思想だと思う。都市以外の人たちは都市のための奴隷?とも拡大解釈をしたら取れてしまうし、実際そうだと思う。都市のお金がないと生きていけない構造で、現在僕が経営しているこみんぐるもそうである。

本当に、それを中心に意思決定し続けると、自然との乖離がどんどん生まれてきて、我々の生きている基板から崩れていくとおもう。

繰り返し言うが、僕自身もその仕組みの中で生きている。車も使うし、電車や飛行機も使う。外国から輸入されてきたものももちろん食べる。そして、勘違いしてほしくないのが、僕はお金儲けは大好きだ。人を幸せにし、喜んでもらい、その対価としてお金が支払われる、儲かる。

でも、お金中心の意思決定だけをし続けることは、良くないのではないか?と思っている。もっと大切なものが世の中にはたくさんあると思う。ということである。

知恵の断絶

この資本主義中心に大きく傾いてきたのは、戦後の高度経済成長からだと思う。それまでは、別の「なにか」がより中心にいて、意思決定に大きく寄与してきたと思う。

その証拠が、奥能登にある。奥能登は大正時代で止まっているような場所が多く存在する。そこで暮らす人たちは、自分たちでものを生産し、消費している。生産と消費がとても近い関係にある。家の横に畑があったり、代々魚やサザエ、海苔などをとってきていて、普通の会社に勤めながら漁をしていたりする。保存食や調味料ももちろん自分たちで作る。そうして作ったもの、いただいたものの物々交換が日常生活に溶け込んでいる。数年前まで水道や下水が通っていなかったところもたくさんあるくらいだ。別にお金がなくてもすぐには死なないし、コロナで経済の動きが鈍くなっても、1年くらいは自分たちで何とかできる自信と蓄えを持っている、と、僕は思う。完全に経済中心ではなく、資本主義ではなく、別の何かなのだ。

先ほどの話とは別の角度で資本主義を見てみると、資本主義の生活とは「お金がないと生きていけない生活」であると思う。食料も家も服も、買わないと手に入らない。当たり前だろそんなこと!と、言われても、それは当たり前ではない。奥能登ではそれが当たり前ではないからだ。「お金がないと生きていけない」という思い込みに毒されているだけだ。

今回のコロナや自然災害などで気が付き始めた人も多いと思う。危機に瀕した時、都市では自分たちの生活をコントロールすることはできないということを。都市は生活に必要なすべてのものを他の地域から集めて成り立っ、砂上の楼閣だということを。

僕自身もそうだったが、出汁は取れない、魚は捌けない、家のちょっとした修理もできない、何でも加工してあるものを買ったり、プロと呼ばれる人に依頼したり。本当に生きる知恵がないと思う。

奥能登には、広範囲で半自給自足をする知恵がまだ残っている。しかし、その知恵を持っているのは80代以上のじいちゃんばあちゃん。それ以下の世代は、田舎には未来がない、と都市に出ていってしまった人がほとんどである。この知恵も、ほって置いたらあと数年で消えてしまう。奥能登で何百年何千年と継いできた知恵が営みが消えてしまう可能性がある。

「田舎には未来はない、都市に行け」と、こうなった根本の思想は、以下の思い込みから来ていると思う。思い込みを洗脳されてしまったという表現のほうが正しいかもしれない。

 ・お金がないと生きられないという思い込み

 ・お金がないと豊かになれないという思い込み

 ・どんどん成長し巨大化していかないといけないという思い込み

 ・テレビから発信される情報が素晴らしいという思い込み

すべて思い込みであって、そんなことはない。むしろ奥能登のほうが圧倒的に豊かだ!と、今は心の底から思う。

生きる知恵、自然に立ち向かうのでなく一緒に暮らしていく知恵をしっかりと継いでいかないと、思い込みが思い込みでなく事実になり、地域の生活を営む力がどんどん弱くなってしまう。これは、日本各地で起こっていることだと思うし、知恵が断絶した地域は、完全に都市の奴隷になり、消費し続けるサイクルにどっぷり漬かり、そこから抜け出せなくなると思う。

最後に

多くの人は世の中のすべてを科学が解明していると思っていると思うが、そんなことは全くない。科学で分かっていることなんて、全宇宙の数パーセントくらいだ。そんな貧弱な知識しか人間はもっていない。

なのに、なぜこんなにも傲慢で上から目線なのだろうか?自然を守る、ではなく、自然に守ってもらっていて、自然から奪わない生活でなく、自然の中で生活をさせていただいている。

社会全体の構造が、こんな簡単で大切なコトを忘れている。

インディアンや原住民族の意思決定は3世代先のことを考えて意思決定し、重要なものは7世代先のことを考えて意思決定していた、と聞いた。これは自然のサイクルと一緒ではないかな、と思う。木々や森、自然の循環を考えるとそっちの時間軸のほうが持続的で循環的である。

ここまで読んだ人は、「では君は”自然中心主義”のように自然を中心にすべてを意思決定するのか?」と思われるかもしれないが、僕はまだ決めていないし、今はまだどうしたらいいか正直わからない。

どうしたらいいか、は、今答えはないが、問い続け、試し続け、答えを求めていくことはできると思う。

僕は器用ではないので、哲学者のように頭の中だけで考え、結論を出すのは不可能だ。そして、完全に自給自足して原始に還るような不便な生活も嫌だ。今のテクノロジー、これからのテクノロジーをつかって、より循環的に、持続的な営みってなんだろう?っていうのを、自分達で試して、生活し、トライ&エラーを繰り返しながら答えに近づいていきたいと思う。だから、ゲンダイシュウラクというプロジェクトを作った。

このゲンダイシュウラでみんなで考え、試し、発信し、そんな循環的で持続的な営みをするために大切な「なにか」を言語化していきたいと思っている。

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