マインドフルネスのここがアカン

マインドフルネスの色々な実践を通じて自分の認識が色々変わり、日常の負担が減ることが多くなったのは確かにある。いろんな問題が解決した。しかし、(まああらゆる解決法がそうなんだろうが)これさえやっていれば万事OKというものでは決してない。というわけで今回はマインドフルネスをやっていてこりゃアカンと思ったことを記録しておく。

呼吸や体の動作に注意を向けることができるようになると、身の回りのいろいろなことを観察することができるようになる。それはいいんだが、そうしていると、さっきまで手にもってた物の所在がわからなくなったり、冷蔵庫の前まできて「アレッ何をするんだったっけ」というようなことが増えてくる。マインドフルネスで得られる注意力というのは、緊張感をもって臨む「集中力」とは違う(ようだ)。だもんで、文字通りいろんなことに気を取られてしまうことが増えてくる。まあ頭脳自体は抵抗なく明晰に働いているので、失くしたと思っててもすぐに見つかるし、なんかやることはすぐに思い出せるので大した問題ではないが、ADHDマンとしてはちょっと気になる(全体としては過去より明晰であるので実質プラスではある)。

あと、常日頃マインドフルネスであろうとするのはなんかちょっと違うのではないかと思う。普段我々が行っている「判断」は確かに拙速で単純かつ幼稚ではあるんだが、日常場面では確かに役に立つ。例えば、本を読んでいる時にいちいちフォントの美しさに一喜一憂していたらちっとも読み進められないし、対向車線からダンプカーが突っ込んでくるという時に車のデザインに見とれていたら命がいくつあっても足りない。瞑想によってスッキリ解決する問題は山ほどあるが、実際に心を砕いて行動しなければ解決しない問題だって山ほどある。だから、マインドフルネスは決して万能薬ではないし、なんでも望み通りの物が手にはいるものでもない(そもそもそういった無理のある執着からの解放を目指すのがマインドフルネスである)。

とまあここまで書いて、「マインドフルネスのここがアカン」というタイトルはちょっと言い過ぎかなと思い始める。アカンのはマインドフルネスに対する勝手な思い込みや期待や妄想の方であって、決してマインドフルネスという手法のことではないのだ。こういった「気付き」を罪悪感や自責の念なく得ることができるのが、マインドフルネスの良いところではある。

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