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「私」と「シミュレーション」

 町屋良平「小説の死後──(にも書かれる散文のために)──」序文が9月27日金曜に公開されて、絶対に自分が読むべき文章だと確信しながら次の月曜(今日)まで読む気がしなかった。おそらく、読めば暗くなるのを予感していたからだ。実際にちょっと暗い気持ちになった。同時に、やっぱり面白かった。

 タイトルからして、自分がやりたいと思っていた仕事と近しい何かを町屋良平さんが始めたことを了解した。まず、その点でうしろめたさがあった。にもかかわらず、自分はその仕事に取り組む気持ちが起きない理由も、町屋さんの文章には書かれている気がしていた。(以下、敬称略でいきます)

「私」の方へ


 「小説の死後──(にも書かれる散文のために)──」序文は、「「想像力」のもっとも短絡的な商品化」に抗していた、2000年から2015年に書かれた小説が忘れ去られていく状況に対して、いま自分が関与すべきだという義務感を表している。ひとまず、そう抽象できる。特に、2003年に発表された青木淳悟のデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」の潜在性を文に残すことが、ひとつのこだわりとしてこわばり続ける様子がつづられている。
 「四十日と四十夜のメルヘン」は保坂和志の強烈な推薦によって新潮新人賞を受賞して、青木はデビューした。青木の手前には保坂という小説家の存在があり、保坂は町屋にとって強い影響力を及ぼしている(ちなみに、この文を書いている私にも及ぼしている)。保坂の批評性をズラすかたちで批評を示し、小説家としての自らを救い、「小説を信じること」に向かわんとする。以上が町屋の論の骨組みだ。

 ところで、私は「小説」と呼ばれる表現形態の現在に二つの流れを見ている。というか、ジャンルとしての「小説」に限定しえぬ、ストーリーテリングの二つの大きな流れがあると思える。「私」と「シミュレーション」である。
「私小説」は、長い間日本近代文学の強い設定として保持されてきた規則を表す言葉だが、21世紀に入って以降のストーリーテリングには、「私小説」の長い系譜とは別に「私」の設定を問題化してきたようだ。一つの潮流を作った重要な書き手が先ほど名前の出た保坂和志であり、小説が書かれる過程にしか宿らない小説性をテコに記される小説論(『書きあぐねている人のための小説入門』、『小説の自由』等)を記したことで、以後の書き手に大きな力を加えた。山本浩貴が「手前のリテラリズム」と名付けた保坂の小説と小説論は、「書かれる手前」の主体感覚に重きが置かれるために、2010年代以降にアイデンティティ・ポリティクスと密接していく(ことも山本浩貴が書いている)。少数派の権利を得る/守る戦いが、多数派の数の力で保証される時代が訪れた。多数派ではない「私」の言葉を、読む読者が増える。「私」が誰かということと書かれるものの結びつきが著者にとっても読者にとっても不可分となり、「私」はひとつのブームとなる。近年言われることの多かったエッセイブームや短歌ブームも、「私」ブームとしてまとめられる。
 
 こうした「私」ブームは、ポップ・ミュージックの潮流とも連携する。2010年代のポップシーンの覇者であるテイラー・スウィフトは、自らの恋愛体験をリリックに落とし込むなかで、「私」と「公」を架橋する大ポップスターとなった。2010年代に隆盛を極めたラップ・ミュージックは、常に「私」のリアルを主題とすることを自らに課してきた。日本のアイドルも韓国のアイドルも、ステージの裏側の「私」を見せることで、熱狂を膨らませてきた。さらに、多くのYouTuberは「私」の生活を動画に演出することで人気と資金を獲得し、「私」の日々を記録していく「Vlog」という動画形態も一般化した。いささか抽象的な見方なのは承知の上だが、2010年代から今に至る時代は間違いなく「私」の時代だった。町屋が言及した「どう書くか」と「なにを書くか」の対立も、「私」の表現である点では一致する。

新しい「私」



 町屋良平は、「私」の氾濫の時代において小説の存在感が薄くなっている事態を、小説家として改めて受け止めざるをえない。その現状確認と抵抗の試みが、「小説の死後──(にも書かれる散文のために)──」になるのだろう。そもそも町屋良平の小説『ほんのこども』には、私小説ともアイデンティティ・ポリティクスともズレた、新しい「私」性が表れていた。

 先日、映画『ナミビアの砂漠』に対して私は「新たな同調性」という言葉を与えたが、『ほんのこども』にも同じ性質を感じる。この小説は、最初私小説的な書き方からはじまったかと思えば、小学校の同級生「あべくん」(後に恋人を殺害する男であり、彼の父も母を殺している)が書いた小説にいつのまにか話が移り、時空間を越えて「私」と「あべくん」の視点が混ざり合う。人を壊す暴力性と暴力が親から受け継がれる遺伝性を捉えるという点で本作は大江健三郎や中上健次や青山真治を引き継いでいると言えるが、『ほんのこども』は客観的描写と主観的意識が判別できない地点に記述を引っ張っていくことで、内なる他者である男性性を主観として描き出すための通路を獲得せんとする。他者が他者のまま「同調」する体験として、『ナミビアの砂漠』の視聴と、『ほんのこども』の読書は通じている。また、それぞれ手法も観点も異なるけれども、千葉雅也や市川沙央の小説にも、「私」を解体して新しい「私」を示そうとする展開を感じる。小説家としてだけでなく、批評家としての町屋良平も、新しい「私」の獲得に向かうのだろう。

 この文章の筆者である私は、町屋を批評へ向かわせたことに多少忸怩たる思いがある。私は文芸を中心に批評する書き手ではなく、音楽や映画の仕事を多く受けている書き手だが、それでも、小説について書くことを考えていた。書くならまずは町屋良平だと思っていた。小説家としての町屋良平の重さを実感しながら、その重量を批評の言葉に換えられないままでいた。もちろん、私の思考の流れは町屋のそれとは異なるし、私が書いたことでなにも状況は変わらない可能性は高い。2000年から2015年の日本の小説も、たくさん読んでいるわけではない。だとしても、自分にやれることがあった。もっと早く書ければよかったのにと、悔しさとうしろめたさとあきらめが混じった感情を抱いている。町屋本人が認める通り、小説の批評は町屋以外の誰かがやらねばならない仕事のような気がしてならない。

 とはいえ、私が書けなかったことにも理由は思い当たる。それはもう一つの表現潮流と関係している。


「シミュレーション」の方へ


 先述したように、もう一つのストーリーテリングの潮流に与えられる名が「シミュレーション」である。「私」とは別の位置に、想像の起点を他者に置く話法の総称として、「シミュレーション」の一語は召喚される。ここでシミュレーションに大いに関係している言葉は「SF」だ。SFの流行も最近の日本出版界に多く言われていた。もちろん、小川哲のようなSF出身の作家の直木賞受賞や、『三体』のようなグローバルに売れた作品の存在も小さくない。しかし、単にジャンルとしてのSFが流行っているだけではない。「私」のブームが強いがゆえに、「私」から離れた物語話法はシミュレーションとしての創造強度を高めているように思うのだ。リサーチや考証を欠かさずに、隙のみえない想像を仕立て上げる。そして、想像された物語が現実に結びつく可能性を高める。「シミュレーション」の力が寿がれる。樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである ――考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』は、まさにSFのシミュレーション性がビジネスや政治の場を変える可能性を説いた一冊だ。「思弁的実在論」や「加速主義」のような思想的潮流もシミュレーションとしての哲学を実践しており、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』や、ニック・チェイター『心はこうして創られる「 即興する脳」の心理学』といった、シミュレーションの題材になる理論物理学や認知科学の書が広く読まれる。イーロン・マスクやピーター・ティールのような起業家/投資家はビジネスや政治の舞台でシミュレーションを実践し、よかれあしかれ無視できない存在となる。これはほぼ勘での発言だが、歴史を扱った物語(小説、ドラマ、漫画etc.)も、今の私たちは「シミュレーション」として受け止めているように思う。男女の位置を逆転させて江戸時代を描いたよしながふみ『大奥』に顕著だが、もっとオーソドックスな方法で書かれた歴史小説に対しても、シミュレーションの場として捉える/受け止める感性を、現在に生きる私たちは有している。私にとって明るい分野ではないが、いわゆる「なろう小説」も、シミュレーションの試みとして読まれているのではないだろうか。
 「シミュレーション」の表現形態の多くは、資本の獲得に後ろ向きではない。シミュレーションの実践には資金が必要になるから、多くの場合資本の拒否はしない。自由な思考やアイディアの実現、未来における変化に資することを第一と考えるから、資本は忌避する対象ではない。
 町屋が「「想像力」のもっとも短絡的な商品化」を批判したように、「私」性に連なる作家は多く資本獲得を警戒する。資本主義とは別の場所に、表現の契機を見出そうとする。ゆえに、「私」の作家と「シミュレーション」の作家はどこかで相反する。いや、その双方に立脚する作品・作家もたくさん浮かぶのだが、その双方性をとらえた批評は、今のところほとんどない。

資本主義は争点じゃない


 小説の批評に手を伸ばす気を塞いでいたのは、小説の「シミュレーション」性を、私が扱いあぐねていたからだ。保坂和志の小説論に大きく動かされたいた私は、言葉が生まれゆく運動性を第一に考えていた。言葉の運動は、たとえ「私」に焦点する一人称ではなくても、あるいは作者自身をモデルにした三人称でもなくても、言葉を刻みゆく「私」の感覚に信を置く。その態度でいた私にとって、「シミュレーション」は、批評的な観点から馴染めずにいた。ほぼ別のジャンルのように思えた。実際、「私」に基づく文章と「シミュレーション」に基づく文章は、別分野なのかもしれない。

 この二つの立場に関して、私は感覚的にどちらも捨ててはいけないと思っていた。シミュレーション性も私性も、探求されるべきなにかを有すると思っていた。シミュレーションは共同体の実験場として存在し、「私」は共同性からこぼれ落ちる私的感覚の実験場として存在する。とはいえ、「どちらもいいよね」で剣を納める相対性に居直るのもつまらないと思っていた。どちらかを選ばない、どちらも受け入れつつ全てをガバガバに受け入れるわけではない基準となりうる、新しい立場を作ることがあると思っていた。「思っていた」と繰り返しているが、「私」と「シミュレーション」という二項の概念は、今回の町屋の文章を読むまで思い当たらなかった。自分の中で形もなく渦巻いていたものに、ようやく言葉がくっついたという感じである。双方を受け入れる新しい基準が何なのかはわからない。先ほど双方に「実験」という言葉を与えたが、その言葉が指す具体性は甚だ心もとない。

 町屋は「権威かセールス力のどちらかを持っている作家のみが真の意味で自由に作品を書ける状況になってしまっている」という小説の現状に対して批判を示しているが、 私はここでいう「真の自由」が何なのかを了解できない。ただ、私は「真の自由」の探求が、「シミュレーション」の探求を阻害するべきでないと考えているのみだ。おそらく、私たちは資本主義の良し悪しで争っている段階にはもういないのだ。「私」と「シミュレーション」を統合する観点を、できれば持ちたい。同時に、経済の観点以外で評価されるべき評価の基準を、私たちは有しているべきだと思う(以下のnoteにそのことを書いた)

 私は、ジャンルとしての小説がどのようになるかに、さして興味を持っていない。小説が生んできた思考の方法が、他のフィールドに生きていけばそれでいいと思っている。むしろ、小説的思考が消えていくのであれば、小説というジャンルが残っても意味がない。以上の観点から言葉を進めてきた私は、やはり町屋の狙いとはすれ違っているのだろう。
 
 この文章にオチは用意していないし、なんで書き始めようとしたのかもいまいち思い出せない。弾みで書いたとして言いようがない。木下古栗のこととかもっと書こうと思ったのだが(彼は「シミュレーション」の実験的極北ではないだろうか)、詳しく書くのがめんどくさくなってしまった。もう少しうまく自分が抱えてる理路とイメージを伝えたかったが、頭が回らなくなったし仕方ない。肩重いし。


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