【特別掲載】町屋良平「小説の死後──(にも書かれる散文のために)──」序文
序
いつか誰かがやるものだと思っている、自分よりも確実に向いている人材がいる、適した才覚が他にある仕事。そうした仕事の心あたりは私以外の、とくに四十歳前後を迎える人間には共通してあるものではなかろうか。
そのような仕事はしかし自分がやるしかない。代わりにやってくれる適任は結局現れない。そのことに気づく瞬間がかならず訪れる。私(町屋)にとって、それが今である。結局、人はそうした仕事から目を背けるか向き合うか、どちらかしか選べずに人生を消費する。自分ではない人がやるべき仕事こそ、自分がやるしかない。自分ではない人がやるべき仕事をただしく「自分ではない人がやるべき仕事」と認識できる人間は自分しかいないのだ。
私にとってのその仕事とはざっくり二〇〇〇~二〇一五年代の小説批評である。
厳密にはこれまでも取り組んできた書き手がいる(*1)。だがずいぶん間が空いたし著しく数が減った。それをいまこのタイミングでもう一度、できるだけ徹底的に行うこと。それをしなければいけない時機が来たと、「生きる演技」という小説を書き終えて、みずからの文学的野心が尽きたような身体で抜け殻のように暗い気持ちで生きていた二〇二四年の私は思った。そもそも私は「文学」が書けなくなっていた。
まず私の考える状況整理として、現状、現代小説批評の文脈はおおむね二〇一六年以降とそれ以前で切断されており、双方の文脈を把握している小説家、批評家は数えるほどしかいない。そもそも、二〇一五年以前の優れた小説のいくつかはすでに入手困難になっている。私が小説家としてのある種の「コンテンポラリー感覚」を培った、素晴らしい小説の数々は、この十年に小説・批評をはじめた人間が気軽にアクセスできる状況にすらない(*2)。
コンテンポラリー感覚とはなにか。たとえば古典小説というのは、じつは読み手にとっては「新しさ」がある程度保証された作品のことをいう。なぜなら当時の歴史、風俗、慣習、書き方、そのどれかの更新が認められたがゆえに古典化しいまなお読まれているからであり、そうした隔たった文化を自明のものとして小説内の言葉は躍動する。いっぽう、現代小説、ここでは新作の小説といえるだろうが、これが必ずしもそうでなく「古い」ものも含まれる。既存の書き方、誤った歴史感覚、解像度の粗い風俗批評、慣習描写を含む可能性がある。ここの交換をよく読むことが私のいう「コンテンポラリー感覚」であり、かんたんにいえばすでにあるものはすでにあり、まだないかもしれないものをまだないかもしれないと、なんとなくアタリがつけられること。その直観と根拠。これが読み手の大きな、作家にとっては時には自作を書くよりも大事な小説家としての仕事となる。ちなみに一応留保しておくと「古い」新作小説はつまらないとは限らない。読みやすく、面白いものも多分に含まれる。「古い」からといって必ずしも小説の価値が低いということはない。では反対に「新しい」新作小説はというと、時に非常に分かりづらい。これは古典名作が時に読みづらいことと要因の一端を共有している。つまり歴史、風俗、慣習、書き方あるいはそれ以外の何かが未知の言葉として現出しているのだから噛み砕きづらい。言ってしまえば文学の「読みづらさ」は文学の歴史そのものともいえる(中上健次は芥川賞候補四回目にして「岬」でようやく受賞した際「おそろしく読み難い」という難をつけられている)。
しかしここでいう現代小説批評の「文脈」とはなにか。これは複雑で、何人かの当該作家の批評を書いて思ったことだが、読まれていないから文脈が切れているともいえない作家もいる。また逆もしかりで、読まれているのに文脈が切れていると感じた作家もいる。また、おなじ作家でこの部分は受け継がれているがこの部分は切れているというグラデーションも当然ある。つまりこれはある「作家性」にまつわるなにかなのである。これはまた本文にて触れることになるだろう。
だから実際には遅きに失している。しかし、遅きに失しているつまりだれにも求められていないように思えた瞬間に、では自分がやることにした。そもそも、まだ充分に間に合うのだったらもっと瞬発力や機知に富んだだれか優れた書き手がすでに取り組んでいる。
「遅きに失した仕事」に私はこれから数年にわたって取り組むだろう。
二〇〇〇年から二〇一五年の間に良い小説を書き、中にはいまも書き続けているが多くはアクセス困難にあり、少なくとも当時の文脈はすでに失われていると私が危惧する、何人かの作家たちの作品をこれから再読して取り上げる。最初に宣言するが、そのなかでもっとも私が執着し、この正体の分からない批評的散文でつねに読解しつづける重要な作品は青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」一作になる。その一作をえんえんと再読しながら、いくつかの作品を読み直し、普遍的に「小説とはなに(どう)か」を考えること。それがこの「遅きに失した仕事」の目指すところである。
青木淳悟から、青木淳悟へ
ところで二〇〇〇年代にデビューした小説家で、もっとも重要な存在は青木淳悟である(*3)。
これは私のなかでこの十年以上、揺るぎない事実としてある。青木は二〇〇三年に「四十日と四十夜のメルヘン」にてデビュー。よく知られたことだが、本作は当時の新潮新人賞の選考委員五名のうち保坂和志がたった一人熱烈に推し、「これはピンチョンなんだ」と他の選考委員ほか編集者を説得し受賞させた。
これにはカラクリがある。「四十日―」がなぜ保坂一人にしか推されなかったかというと、傑作だからだ。だがあきらかに名作になりうる小説ではなかった。では名作とはなにか。それは十年、二十年、五十年、百年読み継がれる小説としての「可能性」のことだ。具体的にいうと、「四十日―」は小説における試みらしきものが意図的にチグハグになっていて、これは比喩になってしまうが未知にしても本来あるべき「文学」の基盤からとおく旅だちどこぞへと勝手に行ってしまったような未知であった。
じつは作家・批評家というのは意識的であれ無意識的であれ、名作となる「可能性」にこそもっとも敏感である。おそらく一般に思われている以上に、そういった名作を絶対に見逃してはならないという強迫観念に似た使命に憑かれている。語の定義があいまいなまま進めてしまい心苦しいのだが、傑作が名作(っぽさ)に破れる選考というのはざらにある。
ところが「四十日―」はそのような名作性をまず徹底的に拒絶した作品であった。だからこそ「傑作」なのであり、保坂のみが推した。なぜなら保坂はどの時代に書かれた小説をもまさに「今書かれたもの」として読む能力と美学があったために、「四十日―」が名作化を拒んでいることにまったく頓着せず、むしろその強みを評価したのだ。
だからこれは通常の批評とは逆の力学で小説を判断する方法であった。しかし私見だが柄谷行人の批評などを読めばすでに名作性と傑作の条件が背反するケースをしっかり読む文脈はある。しかし多くの読み手にはこれが難しい。大江がたびたびエッセイで書くように人間の普遍性に到達する読み物、つまり名作を優れた読み手ほど分かるし、実際そうなっているではないか。あれから二十年たったいま、「四十日―」はほとんど入手困難な状況にある。
だからこそ「四十日―」は面白い。新人賞受賞作で、あまつさえ野間文芸新人賞まで受賞した作品(ちなみに改稿された「四十日―」の単行本は併録作である「クレーターのほとりで」の分かりやすい出来の良さもあり、なかなかの「名作感」があったし、受賞してしまったらその時点でもはや名作に「なってしまう」のだから、新人賞の時に反対した選考委員が複数いたにもかかわらず同作でプロに与えられる新人賞をも受けたのはそういう意味では必然である)であるにもかかわらず、まったく名作でないからこそ傑作なのだ。
私は「四十日―」に、保坂同様いまも惚れ込んでいる。
おそらく長くなるであろうこの仕事、いま私はこの仕事がどのような形で進み、どのような形で終わるのか、まったく想像だにできないでいるが、それこそ私が小説家として小説を書くように、おそらく批評的エッセイのような書き口を目指しているこの文章を、自由連想的に、徒手空拳で私が忘れられない小説らを読みながら、進めようと思っているこの文章は、青木淳悟からはじまり青木淳悟へと終わっていくだろう。
例えばこの時代にデビューした小説家で、青木同様に優れた存在として柴崎友香がいるが、氏の小説の多くはアクセス可能な現在にあって、青木の小説の多くは絶版状態となっており、今の読者が気楽に読める状態にない。これはまず市場的な問題点。
しかしもっとも問題なのは心の、小説を信じ(ようとす)るたましいとしての問題である。私がデビューしたのは二〇一六年のことだが、かえすがえすもそれ以降の小説の状況として、二〇〇〇年から二〇一五年までに書かれたいくつかのすぐれた小説の文脈は、切断されていて、以降の小説家・批評家に継承されていないと感じる。それは二〇〇〇年から二〇一五年までに書かれた小説の特徴として、メッセージ性やジャーナリズム的要素に変換しづらく、再言語化にかなう「伝わりやすさ」がなかったという要因があろう。
まずこのことへの危機意識がある。
文体か、内容か
私が二〇一六年にデビューした当時、選考委員として私の小説「青が破れる」を反対する立場から批評した斎藤美奈子は、〈小説は「どう書くか」が問われるジャンルですが、「何を書くか」も大事だと思うのね。〉と書いた。これは二〇二四年のいま振り返るに、まったく慧眼かつ先見的な提言といっていい。斎藤は批評家としておそらくもっとも長きに渡って文芸誌に載ったいわゆる「現代」小説を読み続けている存在であり、他に並ぶ人物はいないのではないか。作家や編集者や書評家ではない批評家を名乗る文筆家としては。
とはいえ「何を書くか」は「どう書くか」に影響を受け、「どう書くか」は「何を書くか」に影響を受ける。おそらく「どう書くか」と「何を書くか」を区別して考えるのはある種の批評的営為である。そして批評的営為であるということは、(どちらかというと)読者側の視点ということになる。
だから、書き手は必ずしもこの違いを真に受けて考えずよいのだが(というかまったく真に受けるとなにも書けないのかもしれないのだが)、しかし他ならぬ私は真に受けた。そして文芸誌に載る小説はこれ以降斎藤の言葉を予言のようにして、「どう書くか」より「何を書くか」のほうに力点が置かれる作品が格段に多くなったと私は見ている(*4)。
このことが含意することはかなり複雑なものとしてある。しかし、私は二〇〇〇年に十七歳を迎えた世代の人間であるし、読書を始めた年齢も遅い方だったため、体感的に「現代小説」として文脈をある程度わかるのはそれ以降の作品に限る。だからここで私が提示する見方はかなり時代の限定的な近視眼的なものと考えられるだろう。
ひとつは、書き手それぞれの書き方を確立すること(書き方への思考を文章に反映させること)を必ずしも問われなくなった。これは端的にいうと多くの場合「文体」と呼ばれるもののことだが、じっさいの「文体」と「文体への志向」はまったくべつのものであり、この場合後者を問題とする。私の認識としては、「小説家」にはそれが必須だと思っていたのだが、しかし実際、面白い内容を書けばおのずと面白い文体はついてくる。だから多くの場合それらが混同されるように、「文体への志向」は重要だが、「文体」そのものはそれほど大層なものではない。これはある種「小説家」を目指すための文体(への志向)の研鑽を経なくても面白い小説が書けるようになったとも言える(*5)。ここには「エンターテインメント」と「文学」のある種の交換があって、いわゆる「エンタメ小説」にはそれに応じた可読性の高い文体への志向と技術の研鑽は必須であるのに対し、文学は必ずしもそれに対応するものが必須ではなくなっている。かつて「文学」と呼ばれた運動や歴史を知らずとも、現代を生きる者であれば、しぜんにイメージやシーンが浮かび、それらはいつしか物語やキャラクターとなっていき、それに付随するように上手い文章が書ける。文芸誌に載る「文学作品」の一部は可読性の高い「エンタメ文体」への志向を要しない「エンタメ小説」とも読める。つまりただ自由に書きたいように書いているが内実はエンタメ性を兼ね備えている小説という意味である。この意味でいまや正しく「小説に文学もエンタメもない(あくまで文学の側の都合によって、つまり「エンタメ小説」側は厳しく「エンタメ小説の文体」を要請されつづけているのに対し文学は自然に曖昧に不徹底にその文体に寄っていっている)」。それ自体はまったく批判に値しない。小説は面白ければそれでいいのだから。そしてそうした面白い中間小説的要素を兼ね備えた作品のほうがたくさん読まれる。これは批評の衰退がまるで合言葉みたいに各所で言われるようになったこと、また芥川賞を筆頭に各種新人賞を新人が獲得するまでの速度が格段に速まったことと相関関係にある。いまや「面白い」は面倒な手続きも要らず早い。いや、小説が「面白い」だけなら「文学」など知らないほうがいいのではないか? それの何が悪いだろう。
「文体への志向」という観点からすると、これは新人賞を通過したいわゆる「新人賞デビュー」組の作家と紛らわしいのだが、むしろほかに専門分野と呼ばれうるものをもった書き手(*6)らの方が、「自分がなぜその書き方を選択しているのか」という、いわゆる「文体(への志向)」に通じるような思考は強く働いている、というか働かせざるをえないように読める。これは「日本近代文学」、つまりある種の歴史への批評性の有無が関係している。
「小説家」は、批評は、もはや「文体(への志向)」など求めていないのではないだろうか? それはそもそも文章を求めていないということではないか? しかし面白い小説には必ず面白い文体が付いてくるし、それを読み分けるのが批評の営為であり、その自覚の有る無しは読み手次第だが、けっきょく繰り返すようにそこは切り離せないものだから、実態としてはなにも変わらない。「何を書くか」「どう書くか」をクロスオーバーさせ論じる評がほぼ皆無になっただけだ。
読者が読みたいものを書いてしまうこと、その是非
もうひとつには「何を書くか」が重視されるようになった近年、小説は「活字」「単行本」というある種商業性を帯びる前段から、より商品的存在として認識されるようになったという状況がある。書かれる「内容」とはすでにその価値が商業的に判断できうるものだからだ。
多くの小説家は小説が新人賞を獲得した瞬間、あいまいに「小説家」になる。しかし新人賞を受賞する小説の多くは、短くても三ヶ月以上前に書かれた「アマチュア」による作品であり、私の価値基準ではプロになって商業性に揉まれ作家が自発的に作品を「いかにも(既存の)小説らしいもの」にして「読みやすく」するのはそもそも評価できないと思っているため、小説は新人賞というなんとも曖昧な締め切りに向けて、だからこそ自分の全存在を賭すかのように書かれたものが望ましいと思っている。めでたく新人賞を受けて「プロ」になって以降もそれは同様で、書きたいから書く。書けるから書く。少なくとも、そういう態度を維持できる者のほうが望ましい。だから優れた小説家はいつまでもアマチュアであることがその条件なのである。いわばアマチュアのプロなのである。だが作家の限られた初期衝動は、時にすでにある「小説」の形とかけ離れた未知であることが多いため、種類によっては読者の同調を得るのが難しい。そこで「アマチュアのプロ」として作家が書いたものを、「編集者」が良い所、尖ったところをなるべく残した上で普遍性も兼ね備えた、たまたまなんかイイ感じになった作品が、賞を受賞するというケースは二〇〇〇年代にはよくあった。この代表的な例としては鹿島田真希の四作目以降が該当する。このイイ感じについての詳細は鹿島田を論じる際に後述する。私は初期作も好きだがイイ感じ以降の鹿島田作品があってようやく鹿島田真希のことを発見した。
だがはっきりいって現代の作家はあまりにも読者(編集者・批評家・作家ふくむ)の欲望に曝されすぎていると感じる。
読者の欲望とはなにか。たとえば斎藤の先の言葉は業界に向けての提言ととれるが、それは書き手というより読者、つまり評者に向けられた言葉だったように私には思える。
と、いうのも前述したとおり、書き手は書き方と内容を区別して考えながら小説に取り組むことはむずかしいからだ。書き手はそんなに簡単に主題を選べるわけではない。〈とくに若い人々は、作家にとってその文学の主題が、いくつでもありうると考えるかもしれない。しかし真の作家にとっては、かれの生涯が唯一であるように、生涯をかける文学の主題もかぎられたものなのである。〉(*7)
いっぽう、書き手は同時に読み手でもある。それは他者の作品を読む存在であるという以上に、もっと重要なことは、書き手はもっとも強度ある自作の読者であるということである。
強度ある読者とはどういうことか。それは作品に、意識的にも無意識的にも参画してしまうということである。たとえばすぐれた批評がそうであるように(斎藤の批評が自作につよく影響を与えたように)。じっさいの創作行為において意識においても無意識においても無視できない言説というものが確実にある。
書き手は小説を書く時には書き方と内容を区別して考えない。多くの場合考える余裕はない。だが読者としてはどうだろう。書いていない時間にかえりみて、自分の小説が現在の市場に敵うか(これは多くの場合、現在の批評に敵うかということであり、批評のなかには文芸誌に承認されるか、賞に承認されるかということも含まれる)ということを考えない作家はいないだろう。結局SNSや人間関係の近さも作家自身が発信できる基地や信頼としての役割よりもっとそういった欲望を浴びる装置としての機能のほうが強くなっているように思える。私自身文章を書く際に高める異質な集中(これが作家の独創性の唯一の担保である)を維持するための最低限の状況をつくるために、粗雑な情報を遮断することがうまくできなくなってきている。
だからこそ、作家自身の自分が何を書いているのかという批評が必要なのである。それは、自分の小説を救うことだ。まだ活字になる前から制度上の制約や自分の小説の商品性を問われることほど息苦しいことはない。それは多くの場合、実際に活字になった際の制度、つまり商品性とはかけ離れたものであるから。そしてその結果生まれる小説は、「どこかで読んだことのあるような小説」ということにもなろう。
それで、本来もたらされる批評は、そうした見当外れの商品性から書き手を自由にするようなものであってほしい。しかし現状そうなっておらず、ざっくりした観方からすると現在の小説の読み方は既存の読み手(これは批評家や編集者や作家を含む、あらゆる読者である)の欲望を代弁するような言説を無視しづらくなっている。というか、はっきり言ってどうあっても無視できなくなっている。つまり、多かれ少なかれ、読者が読みたい小説を勝手に想定して、書き手は書いてしまっている。それは「想像力」のもっとも短絡的な商品化だ。資本主義の進みによって抗うことの難しくなっていく、だからこそ小説が抗うべきなにかだ。これはそう自覚していない作家のほうがむしろそうなっているというのが、私の見解である。私自身もそう感じる。私自身が読みたいもの、見たいものを、クリエーターが叶えてくれやすくなったと感じる。そして私も叶えてしまっていると感じる。無自覚にクリエーターに作ってほしいものを欲望してしまい、それを無自覚に表明してしまい、かえすがえすもそれが叶う時代になったと感じる。それは多くの場合、各人の考える正義感のために行われる。
書き手はいつの時代も書きたいものを書いているわけではない。書いたものを書いているだけだ。だから、これまでもそうだったのであろう。この意味でも、書き手は主題を選べない。主題とはそれほど、意識に深く食い込む作家のコントロールを逃れた謎そのものであり、だからこそ小説家はあれほど大量の散文を必要としてそれを書き続けることで追い求める。作家が世相に大きく影響され、社会の代弁者として求められがちなのもこのためである。作家の主題というものが、無意識のほうで強く時代に影響を受けてしまうから。読み手も無意識に分かっているのである、作家が主題を選べないということを。ここに無意識の交換がある。このことに自覚的でないと書き手も読み手も辛くなる。だからこれもいまの時代の世相なのだ。書き手と読み手の距離が近くなったこと、読み手の数は多くないのにあたかも塊のような欲望の一員に、書き手自身も含まれること。それそのものが現代の書き手の主題でもあるのである。
しかし創作においてこれほど息苦しく、既存の作品をついなぞってしまいがちなシステムはない。なぜならそれは既存の欲望だからである。普遍性そのもの、一般性そのものだからである。もうすでにある、なにかに似たものしか人は欲望できない。ちなみにこれをうまく操作することで優れたエンターテインメントは生まれるから、この操作における技術差が読者の数を大きく占う。しかし文学に求められるものは必ずしもそればかりではなく、「まだ見たことない作品を」という幻想は根強く文学の需要としてあるものだから、新人賞に向けて書かれた商品性に限りなく無自覚な小説のほうが自由なスケールを保持できており、ゆえにプロに与える新人賞などをデビュー作がかっさらっていく傾向が強まったというのが、私の仮説。
新聞の文芸時評や文芸誌の月評・季評・合評のようなものを思い浮かべてほしいのだが、Xに書かれる読者の感想さえ、出版社に拾われやすいような「商品性」に満ちているし、実際にそれがものすごく必要とされる。文芸誌の季評ではまさかの「芥川賞予想」のようなものまで出現するようになった。これでは本末転倒ではあるまいか。そしてこれらの権威への従属や商品性はあらゆる評に少なからず忍び込む。もうこれは時代の流れであり抗えない。寡黙に読み続けて文脈を引き継ぎ、自作への批評を鍛えるしかない。重要なのは斎藤の提言にもしっかり含意されていた通り、「どう書くか」と「何を書くか」は常にセット、基本的には切り離せないものということである。
ちなみに、基本的に賞の選考委員をするような作家の一部は、能動的であれ受動的であれ二十~三十年の「現代小説」を読んできた蓄積があって、数十年の蓄積と自分の批評観を並列に考えるための文脈が(嫌でも)備わる。しかしこうした文脈とともに生きることは、相当に読むことが好きな人間でないとできない。それも、必ずしも好きじゃない、面白くない小説をも読むのが好きな人間でなければ。シンプルに体力的にきつい。
文脈について
私がデビューして七、八年たった昨今、たいへん驚いているのは、率直にいうとそうした文脈のある者たちと、ない批評家・編集者・作家との間にある読み方の乖離である。読み方というか、そもそも「面白かった」「面白くなかった」という感想の源流にあるなにかを言語化する要請がなくなったか?という感覚すらある。たとえば些末なことであるかもしれないが賞の候補に挙がって小説を無理やり相対評価しなければならないとなった場合、前者と後者の言っていること、着眼点の差異、それ以上に言葉に漲る緊張感というか切迫感の差異が著しく目につくようになった。
これはもちろん選考という権威を無条件に肯定するようなものではない(そもそも「選考委員」も半数程度は現代小説の蓄積があるわけではなく必ずしも文脈がある、あるいはこの文脈を重視する読みをしているわけではない)。あくまでも違いすぎるということが私の問題意識としてある。
私がデビュー前に文芸誌を読んでいたころの従来のシステムにおいて、この乖離はそれほど気になったことはない。むしろ、批評のほうが先に優れた作家を評価していた印象がある。ここでいう批評とは多くの場合編集者と批評家がする。だが現在はどうだろう? このさい「現代小説」が良いものか悪いものかという問いは置いておくとして、だがこの「現代小説」としての文脈の有無はどれほど小説のこれからに寄与するか。小説のこれからを占うか。まずはそれを考えたい。
そこでまず私が気にかかるのは、ざっくり二〇〇〇年~二〇一五年に書かれた小説への黙殺にちかい無言及である。
むろんすでに売れている、広く読まれている、作家として名が確立しているような作品に関してはこの限りではない。
迷いはある。これは「文学」にまつわる当然の新陳代謝にすぎないものなのか? たとえ四十代前後の批評にかかわる人間とて、もう二十年も前の「現代小説」が言及されない、ややもすると読まれていない、そもそも読める環境にないのは当然のことなのか? そうかもしれない。これは自らの好みを暴力的に押しつける独り善がりの思い込みなのかもしれない。だが少しでもそれに抵抗したい、その思いばかりがこの数年募りつづける。
逆に考えれば、二〇〇〇年~二〇一五年の間は、あまりにも二〇〇〇年~二〇一五年に書かれた一部の小説への言及にあふれていた。その言説はそれ以前より受け継がれていた悪辣で軽薄(その本質は挑発と甘えを対象作の「文壇」受容度に合わせて小出しにするような構造にあるように読める)な批判的作品評にあふれ、多くは的外れでもあった。そうしたきわめて男性性的な空間に染まり、それこそが批評だとされうんざりしていた世代が二〇二〇年以降にあらたな批評を立ち上げたともいえる。それがひとつの価値となっているのは自明なこととしてある。
むろん文芸誌というのは文学という学問的側面を持つものを扱っているのと同時に商品性をも問われるから宿命的に常に「トレンド」を追い求めざるをえないため、二〇〇〇年~二〇一五年に書かれた小説よりいま書かれた小説を扱うのは当然であるが、しかし「新人作家」の中にも二〇〇〇年代から活躍し続けている者もあり、そうした作家の過去作が読まれているかというとおそらく読まれていない。それは評を読めばどんな短い文章でも分かってしまう。これはとりあえず読むことで稿料を得るあらゆる「プロ」の読み手にまつわる状況の一端である。
だがたとえば先に挙げた鹿島田真希作品のもっとも優れた批評家は田中弥生だった。こうした文脈がいまどれだけ記録されていて、今後、どのように継承されていくだろう。私には二〇〇〇年代小説の文脈を知りつつ現在も活躍している書評家(*8)のテキストに、いわくいいがたい複雑性を感じ、その文章に読みとれるある種のその複雑さにこそ共鳴してしまうことがある。二〇〇〇年以降のまったく異なるシーンや文脈を知りながら現在の作品も批評することの複雑さを、そのテキストでまともに引き受けるときに生じる、ある種の留保のようなもの。
失われたとして、覚えていたいもの
私は二〇〇〇~二〇一五年に書かれていた小説は世界で翻訳される数多の傑作に敵う豊穣な作品が、内容と書き方と分かちがたく結びついた形で日本語表現として開花した、稀有な魅力を放つ時期だったと確信している。
多くは難解さ、構造的な複雑さをふくみ込み、叙述にも作品それぞれ特徴的な遠近感がある。だからこそ翻訳されることは難しく、それどころかすでに手軽に読めるような状況になかったりもする。
そして九〇年代以前の小説を私はリアルタイムで浴びていないから、その蓄積は乏しいし、なによりあらかた整理が済んでしまっているとも思う。だが私はたとえば当時の最前線を知っている人に、「優れた才能だったが読まれにくくなってしまった作家」がいるかということをよく訊ねる(*9)。
そして私にとってそれにあたる存在が青木淳悟であり、究極的には青木淳悟というより、「四十日と四十夜のメルヘン」という作品それそのものである。これはこれまではよく読まれた作品であろうと思うが、しかし現在入手困難であるため、これからの読者にうまく届くかというと大いに疑問がある。
もちろん青木の作品で、ほかに心を寄せるものも沢山ある。同じように、青木以外の作家でも現在入手困難で(まだ二十年、あるいは十年も経っていないというのに)簡単に読むことはできないが、しかし自分だけでも覚えていたい作家は多数存在する。そうした小説を取り寄せ再読することで、私はなにかを取り戻す。それは記録されたとて状況は変わらず失われる可能性を、失われるだろうからこそ心を寄せるような、単純にいうと「小説を信じたい」という甘えである。甘え? これは甘えなのだろうか。分からない。私は私を信じておらず、ひいては世界、人生、人体をもどこか信じていない。ほんらいの人体としての「幸せ」や「日常」の基盤となる人生、世界を小説ほど信じていない。しかし世界、人生、人体は小説にふくまれる要件である。ほんらいは切り離せない、それを私はどこか切り離してしまっている。小説に依存している。小説を信じるのをどこか「小説に甘えている」と感じてしまうのはそのためだ。
「人生」「世界」「人体」に悲観的な「私/町屋良平」だからこそ、小説を信じる
私はほんとうに悲観的な人間で、町屋良平という筆名が負うもの以上に、私は「私」というものに悲観的であって、「私」の好きなものや重要と思うものに対しても悲観的に接する傾向がある。つまり私は、私がこれから価値づけたいと思っているものに対してさえ、基本的に悲観的な展望を持っている。たとえば私は高橋源一郎や保坂和志といった、小説の新しい価値を提示していった先行作家の持つ、本質的な明るさ、前向きさに圧倒されることばかりある。しかしわれわれ後発世代がその両名に頼り切りであった結果、その間に長い欠落が生まれたことは指摘せざるをえないだろう。この時期にこそ小説への思考は大きく衰退した。「読む」ことを継続的に、執拗に、粘り強く信じつづけて言語化することをわれわれは怠った。
われわれは小説を信じること、というより小説を信じることを表明すること、を怠った。
私の考えでは、批評的に、高橋源一郎が吉本隆明―江藤淳という線を村上春樹へとズらすように受け継いだように、保坂和志は柄谷行人―蓮實重彦という線を小島信夫にズラすことで、批評的により大きな功績を果たしてい、それが保坂独自の批評家としての強度になっている。青木をたった一人の推薦でデビューさせた以上、私が書くこの文章は保坂和志の批判的継承を目標とするものとなる。
それはどういうことかというと、保坂とはまた違ったやり方で、保坂の小説観を受け継ぐということである。しかし現状、私と保坂の小説に対する態度のもっとも大きい相違はその肯定観と信じる力の強さにあると見ている。この二つほど人をひきつけるものはない。よく言われるように人は説得されない、魅了されるというわけだ。
私の欠点として私は「小説とはよく――だと言われる(短絡的な誤解/クリシェ)が、そんなことはなく実際には〇〇なのである(批評的明察/解答)」というような、二項対立から片方を否定することで新しい解への道筋を示すという論の進め方がうまくできない。下手である。なぜなら、短絡的で底の浅い前者の意見の方にいったんは与してみせることで人々を啓蒙するような懐(情熱、明るさ、温かみ、信仰)がないのである。前者のクリシェ(よく言われること)に対し否定するモチベーションもないし、そのことへの想像力もない。もう私はそんな風に考えていないし、そう人に言われたところであまり心が動かない冷たさがある。だからクリシェを否定する動機が弱すぎる。私はいつだって動機が弱すぎていて、というより動機がないに等しいほどに乏しくて、それが私の文章のややこしさ、無為な複雑さに繋がることがままある。
クリシェとはときに自らの若きころに抱いた初期衝動でもある。私の自己同一性の乏しさは、かつて若いころの私が抱いただろうクリシェへの同調や想像力に欠け、それが他者への冷たさとして表れている。これは元気がないと言い換えてしまってもよい。私には元気がない。小説のこと、文学のことでさえ広く人々を啓蒙するエネルギーも資質もない。
だが考えてみれば、高橋や保坂の後発世代が小説を書きながら小説創作以外の仕事に冷淡でありつづけたのは、ある種の元気のなさと、そうした時代性あってのことだったのではなかろうか。私の観察によると、こんにちの小説家は他のジャンルの創作者に比べても突出して元気がない。
元気がないと不足するもの、それが啓蒙である。啓蒙という言葉では胡散臭がられる可能性があろうが、啓蒙なくして文化の存続はない。いま小説には啓蒙がまったく足りていない。そして私はもっとも啓蒙が向いていないと自分のことを評価している。啓蒙というのは、ある種のスター、卓越者がやるもので、それは作品以前の人間性におけるスター性である。
そうした意味でも私はまったく適任ではない。
だからこそ私が書く。
これから始める仕事の具体的な方法として、ここまで書いたように迂遠な、それゆえ長続きさせられる呼吸のような、私にとって妥協的(*10)ともいえる文章で書き続けるこのなにとも名付けがたい文章が、しぜん吸い寄せてくる偶然的思考ばかりを期待して、しばらくの毎日を二〇〇〇~二〇一五年小説の再読とともに生きていく。そのなかで私のなかで再度刻み込みたい名として浮かび上がる作家が、何人か登場するだろう。
その悲観的な「私」の営みに、この文を読むことで付き合ってくれる読者を、私はある意味自分の小説だけを書いてきたこれまで以上にとても強く必要としている。
基本は青木のデビュー作である「四十日と四十夜のメルヘン」をつねに再読する。すでに十~二十回以上は読んでいる私にとってはおなじみの小説をゆっくり再読しながら、並行的に二〇〇〇年から二〇一五年に書かれた小説を読み直す。まだ始めたばかりのこの取り組みにおいて具体的にいま書き始めている主だった作家として、吉井磨弥、桜井晴也、鹿島田真希、荻世いをらといった面々がいる。
だがその試みの先に見えてくるものが、いったいなんであるのか、私にもいまはまだ分からない。
*1 代表的な例としては佐々木敦「私的平成文学クロニクル」(『すばる』二〇一九年五月号)
*2 たとえば九〇年代以前にもそうした小説家は多分にいたと想像される。かつてを知る作家や編集者によく訊ねるが、しかしそこで挙がってくる名前に対して二〇〇〇年に十七歳だった私には果たして蓄積がまったくない。だが例えば自分が思い入れのある存在として鷺沢萠という作家がいる。
*3 ちなみに二〇一〇年代を代表する作家は山本浩貴である。山本は二〇一〇年下半期の文學界新人賞応募作「遠路市街」、二〇一三年の群像新人文学賞の最終候補作「Puffer Train」が注目されながら(「今回の一番の問題作。」(中略)「この書き手には、あきらかに多くの既存の作家をうわまわる、言葉への才能がある」と下読み委員は「腰を抜かし」た。編集部もその才能は認め、声も聞きたいし、会ってもみたいと思うが、この作品に関しては極めて難解で一般性が低いことと、言葉を使ってなにかを書くということは、どこかで「ありきたり」なものをすら引き受ける覚悟が必要ではないのか、という思いから、この作者が「果たし状」の後に、いかにこの世界と対峙する作品を書くのか見定めたいと考え、今回は最終候補を見送った。)(第一一一回文學界新人賞「最終選考手前の講評」より)文芸誌ではデビューしなかった。ちなみに次回まず取り上げる作家として吉井磨弥の作品を読んでいくのだが、山本がこのコメントとともに落選した回の当選者が吉井であった。また二〇一三年の群像新人文学賞最終選考では著しい主語の省略、終盤に種明かし的な要素が収束すること、書かれたイメージの掴みづらさ、といった点が指摘され落選している最終候補作「Puffer Train」だが、後に山本によって明かされたところによると、三章構成のうちの二章前半までを応募し最終選考にかけられたものであったとされる。選考の際には明らかにされていなかったその事実がなにをもたらしたかはここでは考慮しないようにするとしても、「Puffer Train」がその枚数内におさまる収束にふさわしくないスケールをもった小説であることは了解されているようで、では見かけ上収束していることの本質とはいったいなんなのか、また既存の小説が前提とする制度とその是非そのものについての議論が深まっていなかったように感じられたのはいち読者として残念だった。つまり山本は複数回、現代の文芸誌における制度にかなわず落選したという見方もできる。では現代の文芸誌における制度とはなにか。それはほんらい力のある作家、批評家、作品が読者をつくっていくという文学の出発点から転倒し、商品力と読者の要請によって作家、批評家、作品が欲望されるという状況である。これにより、本文とのくり返しになってしまうがたとえばこんにちの文芸誌ではしばしば読者が(なんとなしに)欲望するような主題の作品が誌面に載るといった転倒も発生し、それを時代の要請と位置づけている向きもある。ここでは作品のよしあしではなく、書かれるもの、書かれたものがどれだけ抑圧されているか否か、その多寡が検証されるべきである。だがたとえば青木淳悟は保坂和志たった一人が強烈に推薦したことにより、二〇〇〇年代を代表するほどに文芸誌上にて多くの読者を獲得した。山本は(群像新人文学賞最終候補時に安藤礼二が消極的に、文學界新人賞応募時に「腰を抜かし」た下読みが最終選考前に強く推したといえ)保坂のような批評に出会えなかった青木という言い方もできる。山本の小説群は二〇一〇年代に書かれたもっとも優れた作品の一つである。いま一番出会いやすい作品としては、詩人の鈴木一平との共著となる「無断と土」(『異常論文』ハヤカワ文庫、『ベストSF2022』大森望編、竹書房文庫収録)を推薦する。本文にも書いたし青木作品とも通じることだが、私が「優れた」というあいまいな語を使うとき、ほとんどの場合実際的に「使える」ということを示す。それはどちらかというと同時代的にということをも含めた「死後にも使える」という意味であり、つまり将来に小説を書く人間が参照できるほんのわずかな可能性のために、その作り手にしか書けない発想や質感の濃淡や質を問うという価値基準であり、その意味で作家は究極的には死後に生きる。それは死後にも読まれるとか受賞歴として残るとか教科書に載るとかそういうチンケなことではなく(むろんそれで「使えるようになる」という可能性は広くあろうけれど)、死後にも書かれる散文の素材となるために小説がいま生きるということで、だからこそ文学はある種の一般性を否定し難解さをいやおうなく含む。青木はかなり読まれにくくなっているのが現状だが、一方山本は単著『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』の出版やいぬのせなか座としての活動が徐々に(とくに「文学」以外の場において)認知されてきたことから、今後一般的に読まれる「小説」をいくつか書く未来を予想することは容易い。二〇二四年に入って小説家からの言及も急速に集まり始めている。そういった意味で、たとえば山本の小説は一見独創的だが、高橋源一郎がその著書『一億三千のための小説教室』で言及した猫田道子『噂のベーコン』のように、ある種「伝説化」されることで広まり、いまや三万円を超えるような高値が付くような付加価値のもと読まれるような作家ではけしてない。『噂のベーコン』にしても、一世を風靡した『バトル・ロワイアル』同様、当時歌人、詩人、小説家の枠を超えて批評的に活躍していた枡野浩一が太田出版に紹介し出版が実現したという経緯があるが、二〇〇〇年以降の小説が面白いものであっても軒並み入手困難になっているこの現状は、ある意味そのころから「伝説」に金が払われなくなった、ようするに「伝説」の商業性、ひいては文学性が否定されるようになったという見方もできるかもしれない。つまり脇道にそれたが私の考える二〇〇〇年代で最も重要な作家である青木淳悟の著作の多くは入手困難か絶版状態にあり、二〇一〇年代で最も重要な作家である山本浩貴はいわゆる五大文芸誌上でデビューすらしていないということになる。これが私の独り善がりの展望であるのは認める一方、少なからず同意される人間もいるはずである。これは多くの人がなんとなく承認していることだろうが、いわゆる文芸誌というものは、少なくとも二〇一六年以降、散文の前衛表現や実験性と呼ばれるものが発表される最前線の媒体では全くなくなっている。それらの言葉は詩歌、戯曲、そしてSF雑誌に載る一部の作品へとほぼ移っている。小説においては、本来は若い世代から起こるべき前衛運動が、これはある意味で小説の市場が「中途半端に」縮小したがために、権威かセールス力のどちらかを持っている作家のみが真の意味で自由に作品を書ける状況になってしまっている(むろん私もその一人となりつつある)。そうした一部の作家と新人賞に応募する者のどちらかのみが「実験」もできるという矛盾するような事態になっており、この意味での「批評の衰退」とはただしく作品の多様性を多様性として待望できていないという、個人の資質や意思ではもはやない小説業界全体の無意識の総意のことを指すだろう。市場が縮小しきってしまえば新しい自由が訪れるだろうが、いずれ来る「文芸誌」の終焉をこれからの作家はそれぞれに迎えなければならず、いまの「小説」ではなくなった形でもわれわれはいずれかしてその後に書かれる散文の責任をとる世代であるべきではないか。
*4 だが、これは二〇二三年あたりを潮目にまた変わり始めている可能性がある。「何を書くか」を突き詰め、またそれを作家本人が引き受ける「どう書くか」を兼ね備える胆力のある作品として『ハンチバック』(市川沙央)の登場により。
*5 しかしこれに関しても主に大田ステファニー歓人、小砂川チト、井戸川射子といった作家の登場により、シーンが塗り替えられたという直観がいまの私にある。
*6 岸政彦、千葉雅也など、かつての東浩紀から通じるいわゆる人文科学を経由した言葉、あるいは舞城王太郎を筆頭とする新本格からの流入、岡田利規や本谷有希子を代表とする戯曲の言葉など。
*7 『新装版 大江健三郎同時代論集2 ヒロシマの光』、岩波書店、一七八頁
*8 まっさきに名が浮かぶのは江南亜美子、倉本さおりの両名である。
*9 たとえば先に挙げた鷺沢萠は私にとって大事な作家であるし、二〇二三年に『おどるでく 猫又伝奇集』(中公文庫)が復刊された室井光広は一部の批評家にとりそういった存在だったのではないか、と想像することはできる。
*10 オクタビオ・パスは「小説と演劇は批判精神と詩的精神との妥協を許す形態である。それどころか、小説は是非ともその妥協を必要とする――小説の本質は、まさしく妥協にあるのだ」といった。
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