見出し画像

〜狂気の果てに彼が見たものはなんだったのか?〜【ゴッホ展で見たゴッホという人間の姿】


「紅葉を見ると死について考えてしまう」

私には、なんというか、そういう癖があります。

芸術の秋とはよく言ったもので、なぜだかいつも以上に哲学的なことを考えてしまうのです。(別に秋ではなくてもいつも哲学しています)

特に今年に関しては11月直前にワクチン接種があった関係で副反応で体調も悪く、メンタルが谷底まで落ち込んでいました。

だからこそ、余計に自分の生の意味について考え込んでしまったのかもしれません。

「狂気の天才」ゴッホに惹かれたワケ

要点だけを言うと、今日はゴッホ展の感想を書いていくわけですが、

私は何も「昔からゴッホが好きで!』というわけではありません。

絵画鑑賞という趣味についても始めたのは2〜3年前で、
行ったのは合計5回ほど。

仕事が忙しくなったこともあり、すぐにやめてしまいました。

じゃあ、なぜ、いまさらゴッホに惹かれたかと言えば、
それは「彼の生き方」がちょうど今の自分とリンクしたからです。

ゴッホの挫折が人生に重ねっていく

ゴッホの人生について知ったきっかけは中田敦彦のYouTube大学と天才研究家やまけんさんの記事です。

要点だけを言うと・・・
彼は画商、宣教師、そして、画家としても挫折をしています。

彼は絵を人に高値で売ることに反発し、画商をクビになり、宣教師として浮浪者にものを分け与えすぎて、自らが浮浪者のようになりました。そして、ここでも他の宣教師から追放されることになります。

彼は自らの正しさと本来の在り方を純粋に追い求めた末に、人からも業界からも摘み出されることになります。

そして、それは絵の世界でも同じです。
彼の絵は下手くそだと酷評されることもあったそうです。

じゃあ、どんな経験が私の人生とリンクをしたかと言うと一番大きいのは「占い」です。

金を稼いで自由になるためにに始めた物販で成果を出しました。
しかし、鬱になってしまった経験から、
元々興味もあった占いを始めました。

「自分の持っている才能を使って、人を幸せにしたい」

そんな希望を持って、知識を勉強し、実際の鑑定をしました。

しかし、待っていたのはやるせない悶々とした日々でした。

見えていないのに「見えている」と嘘をついて鑑定をする人
ただ口がうまく転がす人

そんな人が稼いている姿、そして、実際に顧客を幸せにしている姿を見て、
どうしようもない虚しさを感じました。

どうして彼らが稼げて、人を幸せにできているのか。

なんとなくその要因に気づくことはできました。
そして、「彼らのようにならなくてはならない」と思い努力をしました。

しかし、できませんでした。
どれだけ論理や理性でわかっていても心が許してくれなかったのです。

私はこのような経験から、彼の利益に染まれない純粋さに共感をし、
そして、彼の人生に「生き方の答え」があるのではないかと思ったのです。

知りたかったこととは「ちゃんと狂って死ぬ方法」でした。

ゴッホに会いに行く

上野駅に着いて、公園口から出て信号を渡ると家族連れや修学旅行生など、多くの人がいました。

私が行ったのは11月2日の平日だったのですが、おそらく多くの人が有給を取ったりして休みにしていたのでしょう。

この人の多さを見た時、
「もしかしたらかなり混んでいるかも…」
という嫌な予感がしました。

私は「人が多すぎる美術館」が大嫌いです。

理由はいくつかあるのですが、一番は私の「鑑賞の仕方」にあります。

まあ、普通に見るには見るのですが、
そのうちの数枚、本当に心惹かれるものは一度見た後、「目を瞑って」見ます。

そうすると、その絵に込められた思いや当時の制作風景が見えるのです。
※あくまでも個人の感覚で感想です。事実とは異なると思います。

しかし、人が多いとこれができません。

集中できないというか、無数の観客の思考や声で全てが遮断されてしまうのです。

だからこそ、今回のゴッホ展はちょっと無理そうだな、と思い少し気持ちも萎えました。

答えはわからないかもしれないな

半ば諦めて、展示会場に入りました。

そして、やはり残念ながら、人が多くいました。
事前予約制ということもあり、ごった返すほどではありませんでしたが、
それでも、私とっては"多すぎる"レベルでした。

仕方がないから回ってみよう・・・

一階は今回のゴッホ作品をコレクションした「ヘレーネ・クレラー=ミュラー」が集めた他の作者の作品が並びます。

特に感動したのは私が好きなオデュロン・ルドンの作品も展示されていたことでした。

3年前に彼の展示会を初めて見た時、彼の持った悲しみや叫びを作品に感じ、衝撃を受けたのを今でも覚えています。

ゴッホの原型。人間ゴッホを観る

さて、2階から本格的にゴッホの作品が並んでいきます。

デッサンから始まり、絵の具を使った絵画に変わっていきます。

その時のゴッホは「人間」を描いていました。

作品を見ていく中でもこの時の彼は人間にスポットライトを当てているように感じました。

農民やその生活を描いた暗い色調が並び、
無骨さと土臭い人間の営みの力強さが滲み出てくるようでした。

そこから段々と色調も描く対象も変わっていきます。

草木、花、果実、自然。

段々と彼の作品には色が灯ってきます。

それは彼が持っている感受性をもう一度開かせるための鍵になっていたようにも感じました。

狂気が人という枠を越えさせる瞬間

そして、とうとう、有名な黄色の色調の絵が続々と現れていくことになります。

この時代の彼の絵を見ていた時、
ここが彼の人間というラインを超えた瞬間ではないかと感じました。

自然の美しさという対象を"彼に見えている完全な表現"として描き始めたのがここからではないかと感じたのです。

その時代に至るまでの彼の絵の変遷を見てきた時、
彼は"普通の人には見えない色"がはっきりと見えていた人ではないかと感じました。

その感受性が下手くそな隠れんぼのように絵画に覗く瞬間があったのです。

しかし、「人間」という場所に彼の意識自体がスポットライトを当てているうちは、常軌を逸するほどの感受性は必要ありませんでした。

だからこそ、まだ人としての面を強く残すことができた。

しかし、「自然」という対象に目を向けた時、
彼の感受性は開き、本来見えている現実ではない色を受け取ってしまった。

それは明らかに人という器を超える"何か"であり、
"ありのままを描く"には常軌を逸する必要があった。
そんなふうに見えたのです。

彼にとって"ありのままを表現すること"は"常軌を逸すること"に直結し、その姿は他の人からは狂気に見えたのかもしれません。

彼にしか見えない"本当の色"が描かれていく

強烈な表現によってある種の自己表明に近かった"黄色の時代"が終えると
角が取れていくように落ち着いた色彩に変わっていく。

これは彼がサン=レミで療養をする時期であり、ここで私は一枚の絵に魅了されました。

それはサン=レミ療養所の中庭の絵でした。

この絵を見ていた時、私は泣きそうになりました。
目を瞑り絵の感情に触れる時に泣きそうになることはありましたが、
普通に見ていて泣きそうになったのは初めてでした。

それは彼にしか見えていない世界を、空虚となって憑き物の取れた純粋な彼のありのままを見ることができたからだと思います。

人を描き、視界に映る自然を描き、彼にしか見えない強烈な自然の美しさに感情で挑み、そして彼に見える純粋なありのままを描く。

もうここまで来た時に私の問いの答えは見つかりました。

狂気とは純粋さであると。

ただゆっくりと狂気(純粋)があるべき死へ向かわせる

そこからの絵は"彼にとっての現実""彼にとっての世界"が純粋に混じり気なく描かれていました。

それは彼が人としての器に囚われることなく、ゆっくりと進むべき道へと導かれているかのようにも思えました。

人を超えた先というのは、少なくともその当時は死であったとなんとなく思います。

ゴッホがゴッホとしての純粋さをただ何も意識することなく進んだ時、
彼は死というものすら意識することなく絵に向かうという狂気の中にあったのではないかと思います。

狂気の果てに彼が見たものはなんだったのか?

彼は半狂乱になっていた時は一切絵を描くことはなく、
感情と意識が落ち着いていた時のみ絵を描いていた。

そんな話をゴッホ展に行く前に知りました。

しかし、彼の絵を見て、それは真逆ではないかと私は思ったのです。

彼は彼の純粋さに完全に狂っていられた瞬間だけ絵を描くことができて、
それ以外の瞬間は現実という歪みに向き合い、悶え苦しんでいたのではないかと思うのです。

ゴッホは狂気の天才と呼ばれていますが、
彼はむしろ純粋な童心を持ち続けた太陽のような子供であったのではないかと思うのです。

ゴッホから受け取った答えを抱えて

会場を出て、エスカレーターを上がっていくと視界に空が映りました。

快晴なんかではなく、雲間に控えめな青が穴から覗く中途半端な空でした。

しかし、私の心は晴れていました。

「狂気に塗れるとは、自分に純粋であることだ」

ゴッホの絵と人生からそう受け取った気がしたからです。

また泣きそうになりました。

しかし、その涙は本当に私が自分の狂気(純粋)に身を投じた時に流すものだと思い、引きました。

PS.

ゴッホ展のテーマソング 大橋トリオさんの「Lamp」
めちゃくちゃいい曲なので、もし今から行かれる方はこれを聞きながら鑑賞するのも良いと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?