コロナショックからアメリカの家族写真文化を考える

 きのう、報道ステーションで、コロナ感染症が拡大しているアメリカでは、いま家族写真を撮ってもらうことがはやっていると紹介されていた。気になる報道だと思っていたら、民俗学者の畑中章宏さんがそのことをツイートされていて、なんだかよけいに気になっている。

 おそらく、ただの記念という意味ではなくて、自分たちのおかれている環境が死の恐怖と密接になっているからということも関係しているのだろう。そもそも、アメリカ人は自分や家族の写真を大切にする国民性があるように思う。例えば、大ヒットドラマ「スーツ」を見ていても、弁護士たちはみんな自分のオフィスの壁にハーヴァードの卒業証書と自分の写真をセットで額装してかけているし、デスクには家族や恋人の写真。映画「タイタニック」でも、老婆になったローズが沈没船探査船に乗り込むのに大量の家族写真を持ち込んでいたのが、幼いながらにとても印象的だった。

 フランスに住んでいた時も多くの研究者をはじめとするひとたちのオフィスに入ったことがあるが、家族の写真を自室に飾っている人はいなかったような気がする。

 もともと家族写真好きの彼らが、この状況下で家族写真を残す(報道ステーションでは、若い夫婦が自宅ポーチで写真家に撮られているシーンが紹介されていた)というのは、見ることの歴史からいってもかなり「アメリカ的」に見える。

 そもそも、アメリカはおもに東海岸を中心に、文化形成にあたってヴィクトリア朝イギリスの影響を吸収してきた。ヴィクトリア朝(1837〜1901)になると、中産階級のひとびとがアクセサリーを身につける習慣が定着した。やがてそれは、なくなった家族の遺髪などを入れたアクセサリーである「モーニング・ジュエリー」へと発展していく(モーニングは「朝」ではなくて「喪(Mourning)」のこと。

 アメリカでも、このモーニング・ジュエリーの文化を受容している。そして、おそらくはその発展系として、死んでしまった子どもを写した写真や、亡くなった家族を描いた油彩画とともに自分を写した写真が多く残されている。前者は他国でも見られるが、後者はアメリカに特有のようだ。これは、失われてしまった家族を永遠にとどめようという、写真の特質が「家族」という単位と結びついて生まれたアメリカの視覚文化の一断面のはじまりである。(下の写真は亡くなった息子と思われる男性の油彩画と夫婦(『Origins of Photography』, Yale U.P.より))

 20世紀になると、家族写真は、不穏な世界情勢の裏腹でハッピーな大国アメリカをアピールするのにも使われてきた。たとえば、昨今オメガのCMでジョージ・クルーニーと対談しているアポロ16号の乗組員チャールズ・M・デュークは家族と撮った写真を月面に残してきていて、その写真はNASAの公式写真記録として当時から公開されている。あるいは、名実ともに世界一のカメラ、写真材料のメーカーだったコダックは、幸せな家族に寄り添うコダックという広告戦略を50年代から70年代にかけて展開している。

 これらの「家族写真」をひっくるめて思うのは、常にその間近に死の恐怖があったのではないかということだ。19世紀には高い乳児死亡率や南北戦争がここまで書いてきた家族写真の背景にある。20世紀になっても、両大戦にくわえてキューバ危機、ベトナム戦争など、本土は平和でも対外的に死の恐怖が近くにあった時期は比較的長い。

 そこにきて21世紀のコロナショック。死の危険や恐怖が身近に迫っているから家族写真を残すというのは、なんだかとても「アメリカ的」な気がしてならない。アメリカ人たちが家族写真を(おそらく世界でもっとも)大切にするのは、案外こうした歴史の延長線上にあるのかもしれない。

 

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