写真史の稀書・奇書・寄所(4)ーヘルマン・フォーゲルの『光線并写真化学』

 数年前、出講先の大学のレターケースに、おつきあいのない古書店から封書が届いたことがあった。中をあけると、手書きの在庫目録。ちょっと不気味だなと思いながら目を通すと、探していた本が(!)

 なんでも一見さんお断りでアポイント制だという。講義を終えて即、午後見に行きたいと連絡を入れ、ソッコーで退勤。なんでも写真専門の書店というわけではないが、それなりに取り扱いがあり、おもしろそうなので目録を作ってネットで僕の名前をみつけて大学に送ってみたとのこと。

 写真関係は店内の本棚の一区画なのだが、本棚ごとほしいくらいヨダレものの品揃え。厳選してもかなりの額。オヤジさんに「取り置いた上で請求書出してくれ、金を工面して振り込んだら送ってほしい」と頼んだら、「いやあ、せっかく来てくれたんでもってってくださいよ、代金はあとで振り込んで」と言われてしまう。古書マニアのシンパシーなのか、オヤジさんの人たらし力なのか、とにかく、4冊でそれなりの値段の買い物をする。

 こんかい紹介するのは、そのうちの一冊でくだんの目録にはなかった幻の一冊『光線并写真化学(こうせん ならびに しゃしんかがく)』である。最も研究に必要で長年探していたうちの一冊。『写真新報』誌で明治26年に連載され、完訳後に単行本として出版されてはいるものの、実物は一度も見たことがなかったのである。しかも本書は増補再版とある。

 原書はヘルマン・フォーゲルの『Die chemichen Wirkungen des Lichts und die Photographie』(1874)。といっても、本書はD. Appleton社が1875年に出した英訳版の重訳である。訳者は小川一眞(石川巌校閲)。小川といえば明治期の日本を代表する写真師の一人で、日本写真史ではかなりの重要人物のひとりである。それはおいおい説明するとして、一般的に馴染みのあるいいかたをすれば、前の千円札の夏目漱石を撮った人、である。

 小川は武州(今の埼玉県)行田出身で、東京に出て英語を学び、かたわら写真術を身につけて一度は富岡で写真館を開業するも失敗、その後、横浜で警察署の通訳などをして、明治15年にアメリカ軍艦司令官に頼みこんで水夫として雇ってもらうかたちで渡米した。こういう方法がまかり通ること自体、かなり夢がある。到着後はボストンなどで写真を学ぶのであるが、この留学期間にフォーゲル本に出会ったようだ。

 帰国後は技術と英語力と人脈を生かして日本の写真界の中心人物になっていく。お雇外国人として日本に来たスコットランド人衛生工学エンジニアのバルトンことウィリアム・バートン(明治中期の日本の写真界の指導者でもあった)からイギリスをはじめとする欧米の写真の動向や技術を吸収していくが、フォーゲルの著書には、後年までずっと影響をうけていたようだ。

 それは明治26になって同書の訳載を始め、完訳後ほどなく単行本として上梓していることからも明らかだし、増補改訂しているということは、その後も小川が本書に親しくしていたことを示唆している。どうも、僕の考えでは明治45年に小川を代表者として名前で文部大臣に提出された「東京美術学校写真科設置上申書」を草起する際の"参考書"の一つではないかと考えられるのだ。

 さて、内容はというと、当時の写真技術書といえば、めまぐるしく変わる写真技術を撮影シチュエーションごとに説いたハウツーに写真略史がくっついたようなものが多い。本書も歴史的な記述から始まるのだが、中盤は写真科学、すなわち写真測量、天体写真、顕微鏡写真と広がり、さらには写真を応用した印刷術にまで話が及ぶ(下の写真は目次の一部)。本書で最も特徴的なのはその結論で、最終章では「写真術は技術及工芸に関する諸学校に於て教授すべき一学科たるの価値あり」という、写真教育論に広がっていくのである。

 小川はこの構成に注目していたものと思われる。かなり簡略化していうと、美校上申書のなかの、写真が学術百般に役立つ技術であるという主張やその具体例はフォーゲル本の目次構成と軌を一にしている(込み入った話だが、興味のある方は拙著『絵画に焦がれた写真』の第3章に詳述しているので読んでみてください)。

 賛否はあるかと思うけれど、小川一眞は解放主義的な側面のある人間で、それは功名心ではなかったように思う。写真師というのはたとえば幕末の蘭方医と同じで、技術やノウハウはひた隠しにされ、一門に口伝でうけつがれていく。それをどーんとなんでもかんでも公開しようとしてかなり写真界から反発をくらった人物である。

 ただ一方で、バックには最後の岸和田藩主にして東京府知事にもなる外交官・政治家の岡部長職がいたり、写真家で唯一帝室技芸員に任命されているし、海外から勲章は授与されてるわ、あげくには内国勧業博覧会で審査員でありながら自分の写真に賞を与えたりと、おいしいところをもってっているのも事実ではある。売名にも見えなくはないが、その一つひとつにそれが必要悪・結果論だといえる経緯もあるというのが僕の考えだ。(そういえば、再婚相手は板垣退助の三女だったりもする)

 この来るもの拒まずというよりも、率先して最先端の技術・情報をみんなで共有して写真界全体のレベルを上げようというのが小川の終局目標で、それは徒弟制度での後進の育成には無理があるので官立の学校(東京美術学校)で写真師・製版技師を育成してほしいという上申にリニアにつながっていく。そこでネタ本になったのが『光線并写真化学』なのである。

 紆余曲折あって東京美術学校には1915年に「臨時写真科」が設置されるにいたるわけだし、そこには森芳太郎や鎌田弥壽治といったすぐれた写真教育者が集い、中山岩太のような世界と渡り合える知識と美意識をもった名うての写真家が輩出されるのだから、この本は案外、日本近代の写真界の運命をになった一冊といえるのかもしれない。

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