垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~
第18話 アプレゲールと呼んでくれ 35
「俺が昭和三年の生まれだって言ったらびっくりしますよね?」
夏目が薄ら笑いをしながら鼻を鳴らす。
「どういうことかしら?
ばかばかしいという気持ちが先立った後で。
びっくりどころか『この人は心が病んだ可哀そうな人なのかしら』と。
思わずあなたを憐れんでしまったわ。
あなたに同情する。
そんな自分が、我ながら気持ち悪いわね」
ルーシーが敬語を使うのをやめた。
『ふざけた与太、飛ばしてんじゃねーよ。
ポンツクなクズヤローが!』
ここぞとばかりに罵りの言葉を浴びせかけようとした練鑑帰りのチワワがいる。
だがチワワには飼い主の口調の変化に気付いて思い止まるだけの分別がまだ残っていた。
チワワは喉まで出掛かった言葉を飲んだ。
「まあ、それが当たり前の反応ですね。
それを踏まえて結論から申し上げれば、俺はあなたを自分のものにしたい。
いや自分のものにします」
再び唐突に話題が飛躍する。
背筋を伸ばした夏目は、汚らしい嫉妬を張り付けた顔から、いっそ爽やかなと言える笑顔に面相が変わる。
ルーシーの瞳が薄闇の中で緑の輝きを増し、赤毛が紅蓮の炎のように吹き上がる。
ルーシーは、両手で円の頬を固定すると唇を円のそれに寄せる。
そうして愛情を貪るような情動を、これ見よがし実演してみせる。
いつしかルーシーの手は円の後頭部に回り、舌を絡める濃厚な口付けがいつ果てることなく続いた。
どれほど時間が経ったろう。
視床下部を中心とする大脳の辺縁葉に過負荷をきたして円が半ば失神・・・。
昇天しかけたころ、ルーシーは差し入れていた舌で円の唇を舐め、名残惜しそうに欲望の結節点から短く距離をとった。
ルーシーは組み替えた腕の中で放心した円の頭を、抱き締めるように自分の胸に押し付ける。
心の底から満ち足りたルーシーは、面貌に上気した艶やかな生気を湛えている。
そうして自然に浮かんだ妖艶な笑みの中から夏目に視線を投げかける。
ルーシーは生まれて初めて自己分析のフィルターを通さず、胸の内に湧き上がる衝動のままに行動したのだった。
『こういうのって思いの外、わたしの性に合っているな』
ルーシーは驚きと共にそう感じ、胸に少しくすぐったい様な恥じらいの熱を持った。
「おあいにくさま。
これがわたしの答え。
下衆な男にもの扱いされて嬲られるくらいなら、力の限り抗って・・・。
いいえ力の限り戦って。
それでも駄目なら円とふたりで一緒に、あなたの前で死んで見せる方がずーっとまし」
佐那子のリプレイのことが頭に浮かばなかったと言えば噓になる。
だが自分が『一緒に死にましょう』と一言持ち掛ければどうだろう。
円は何も言わずに付き合ってくれる。
そのことは間違いのない事実として知っている。
二度目の接吻は、先の子供じみたキスとは次元が違う、大人の濃厚なベーゼだった。
だがそんな示威行為を見せつけられても、今回は夏目の瞳にどんな色も浮かんで来ない。
先のキスで見せた反応を思えば不思議である。
「僕にはいくらでも時間があるんですよ」
夏目は小さな溜息をついて頭を振ると直ぐに朗らかな笑いを見せる。
ルーシーの清冽な情欲から吹き上がる。
その眩(まぶ)しいばかりの色彩を、夏目はあっさり無視してのけた。
ルーシーの挑発は文字通り過激だった。
しかし、最初の恥じらいを含んだ接吻を見せつけた時より以上の強い動揺を、夏目から引き出すことはできなかった。
夏目に付け入る隙が見つからない。
「昭和三年・・・。
関東大震災の爪痕が残る東京に生まれて太平洋戦争の空襲を生き残こり。
戦後は焼け跡の闇市で・・・。
俺の人生には、それこそ筆舌に尽くし難い・・・。
色々なことがありました」
夏目は訥々(とつとつ)と、誰が尋ねた訳でもない。
ルーシーと円にすれば聞きたくもない。
自身の半生記を語り始める。
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