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垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~

第17話 新たなる危機 10

 「アダージョねアダージョ。
アルビノーニとバーバーが左右から。
終いにはブラームスの一番がティンパニーの音も高々にフェードインしてきたのだからもう死んでしまうかと思ったわ。
円が人様に手を掛けるなんて何かの間違いだし。
徹底的に戦ってやるって思ってたのだけれど。警察で係の人や高木先生にお会いしたら不思議ねぇー。
円が犯人に間違いないんだってたちまち絶望してしまったの。
もうどっぷりとクライスラーの“前奏曲とアレグロ”ね。
でももっと不思議なのは高木先生からお電話を戴いた時。
悲嘆にくれつつ『しっかりしなきゃっ』て自分を励ましながら鑑別所に面会に行く準備をしていたの。
受話器の中から「冤罪でした。円君は無実です!」って先生の弾んだ声が飛び出してきた瞬間。
『ほら最初に思った通り!』ってまるで魔法が解けたみたいにポッカリ。
ドビュッシーのアラベスクが粘っこい霧みたいなもやもやを吹き飛ばしてくれたの。
そしたら頭の中がスコンっと晴れわたってすっきりしちゃった」
 ふーちゃんは器用にフォークを操ると、程良い量のパスタを一回で巻き取り、品よく開けた小さな口に運んだ。
姉は自分の好物についてはかなりマニアックな料理人だ。
オリーブオイルやフレッシュトマトを使った類のメニューは大得意だった。
彼女は中村紘子を敬愛していて「包丁も満足に扱えないピアニストが上手に弾けるわけがない」とおっしゃる大先達の自論を固く信じている。
だからなのだろう。
<ピアニストは指を危険に晒さない>と言う鉄則を無視する。
こんなの平気の平左とばかりにまるで臆することなく、鋭利な刃物を操りながら多様な料理にチャレンジし続けていた。
 「こうして我が家でふーちゃんのパスタを食べられるのも皆のおかげなんだけどさ。
秋吉がすでに加納家に浸透してるなんて思わなかったよ」
僕はフォークから、だらしなくなだれ落ちそうになるパスタを、なんとか音をたてないように頬張る。
僕はパスタを相手にして、ふーちゃんのように上手にフォークを扱えたためしがない。
「浸透だななんて人聞きが悪い。
まるでアキちゃんがスパイかなんか見たいじゃない。
アキちゃんは素直で礼儀正しくて。
私を『ねえさま』なんて言って慕ってくれるとっても良い子よ?
妹にしちゃいたいくらい」
秋吉にはどうやら人たらしの才があるらしい。
三人娘の中にだっていつの間にか、舎弟ならぬ妹分としてちんまり収まりかえってるしね。
<そもそも論>に拘りがちな三島さんだって、難なく取り込んでるんだからな。
秋吉ってヤツは大した玉だよ。
「そんな子がよ、実の母親にあんな目にあわされてごらんなさい。
佐那子さんからアキちゃんの辛い生い立ちを聞いている間に、ベートーベンのピアノソナタ第8番を頭から通しで二回も脳内演奏してしまったわ」
ふーちゃんのパスタは皿の上から着実に減っているのに、もぐもぐ食べている気配が全くない。
「悲愴?
それでチャン付け?
確かに秋吉の過去には同情するけどさ、あいつが偽証なんかするものだから僕としては・・・。
“魔王が肩に担いだラジカセからグレツキの悲歌を流しながらやってくる”レベルの辛く過酷な日々を過ごすことに成ったんだぜ。
ふーちゃんはさ、身内なんだからもうちょっと僕に優しくしてくれても良いよね?」
「グレツキの悲歌は嫌ね」
姉は軽く身震いする。
「けれども終わり良ければ全て良し。
あなたにもまた一人、可愛いガールフレンドが出来たことだし。
アキちゃんには、今度私の伴奏でスプリングソナタを弾いてもらうからそれでチャラにしなさい」
 屈託のないこぼれる様な笑顔と、諧調の整った澄んだ笑い声にムッと来て。
それから僕はすぐに脱力した。
先輩が僕の人生に登場した時は、内気なくせにそれなりの騒ぎを演じたふーちゃんだったのに。
三島さんと橘さんが参入してくる切っ掛けとなる事件が立て続けに起きて、僕が死にかけたり警察沙汰に成ったりしたからね。
オーディナリーピープルにはあり得ないここ半年の経験で、ふーちゃんの気苦労の閾値が上がって修羅場ズレしたのかも知れない。
先輩と三島さん経由でも、秋吉経由でもふーちゃんに対して心理操作に関わる能力を使ったことはない。
だからそういうことなのだろう。
 ふーちゃんにはいつか、僕たちの秘密を明かす時が来る可能性が高い。
その時には自分も能力持ちの仲間に混ぜろと駄々をこねそうな気がして、少し憂鬱な気持ちも湧いて来る。


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