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垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~

第18話 アプレゲールと呼んでくれ 2

 国鉄中央線の豊田駅は、とある退屈でつまらない土地に、ひっそりと蹲(うずくま)るように据えられている。
豊田駅は日本史に登場する地名を冠した日野駅と八王子駅に両の脇を挟まれている。
だが、そのことには新聞の折込チラシほどの意味もない。
本当にこれと言って際立つ特徴のない地味で面白みの無い駅であることの言い訳にはならない。
 駅の八王子寄りには大きな電車区があるので、終点の高尾まで行かず豊田止まりとなる電車も多い。
しかし、先頭車の行先表示を見たり中央線の各駅でアナウンスされる豊田という駅名を聞いたりしてもどうだろう。
果たして、豊田がどんな街なのかを思い浮かべることのできる人間がどれだけいることか。
例えそんな人間がいるとしても、この路線を利用する者達の中でも圧倒的な少数派に違いない。
そもそも、駅周辺に畑しかなかったからこそ、中央線随一の車両基地を作ることが出来た訳だ。
 事程左様に、山手線で言えば駒込か鶯谷と並ぶくらいに、存在感の薄い豊田ではある。
だが、そんな街にしばらく前から週二回も、円が力説するところの『天使!』が降臨している。
 「天使を目撃した地場の下賤な衆生共は目が潰れるのではないかと恐れ慄くことは必定!」
ルーシーの降臨先が豊田と聞いた円は、はたと膝を打つ。
そうして太鼓持ちみたいな見え透いたおべんんちゃらを、恥ずかしげもなく並べ立てたものだ。
 事実、楚々としたルーシーの美貌はいやが上でも人目を惹いた。
円の言い様はいささか誇張が過ぎるだろう。
だが、彼女は豊田駅の駅員や駅前商店街の男衆にそれなり以上の深い感銘を残してはいる。
そのことを知ったれば、円は更に調子付くに違いない。
「鄙には稀!」だの。
「掃き溜めに鶴!」だの。
円のよいしょもインフレ気味に景気よく積み増しされるだろうことは火を見るより明らかだ。
 気持ち良さげに幇間芸を演じて見せる円を捨て置いて事実を整理してみよう。
なんとなれば、“天使降臨”の謎解きをしてみれば種も仕掛けもある。
 ここ最近のルーシーは、駅にほど近い多摩平団地に庵を結ぶ裏千家のお師匠を頼っている。
彼女はわざわざ電車を乗り継いでお茶の稽古に通っているのだ。
要はお嬢様らしい習い事への行き来が、ルーシーの豊田駅に降り立つ理由。
謎めいた“天使降臨”の答えだった。
 茶道を志すのなら、自宅に近い井の頭線沿線を探せば、准教授クラスの許状持ちがゾロゾロ居そうである。
ルーシーがわざわざ多摩川を渡ってまで通い稽古に来ているのには訳がある。
全ては、円が荒畑から仕入れてきたルーシー襲撃の噂に端を発している。
ルーシーの通い稽古は敵対勢力に対抗するため佐那子が立てた作戦の内にあるのだ。
 実は豊田の駅前には東都警備保障の南多摩支社が置かれている。
八王子、日野、多摩、稲城、武蔵山の一帯は帝王学の一環として、佐那子が父親から運営を任されている地域だった。
過日、円からルーシーを狙う噂話を聞かされた佐那子は高木弁護士と事務所の協力も得て、噂の真偽を測る計画を立てることにした。
 荒畑による襲撃話は、曖昧模糊とした伝聞情報ばかりである。
となれば、情報の出所である暴走族不良人士界隈の信頼性はどうだろう。
冷静になって状況を俯瞰すれば、襲撃が本当に単なる噂話である可能性も高かったのだ。
 試みに佐那子は登下校時のルーシーと円に、ガードを兼ねた監視をつけてみた。
けれどもルーシーの周辺には、いっかな不審な人物は見当たらない。
更には常ならざる出来事も起きなかった。
 ただ、円についてはかなり危うげなシチュエーションが散見された。
月並みな男子高校生が退屈しながらも甘受する、穏やかで詰まらない日常の繰り返し。
そんな長閑な日々は円とは無縁になっている。
 円が路上で族と思しきバイク乗りと出会えばすれ違ってお終いとはならなくなった。
族が円を認識すれば、間の抜けたフォーンの喚(おめ)きで挑発されることが当たり前になった。
罵声から嘲りまで十人十色の野卑な声掛けをされることも多い。
円がその筋の少年たちの間で、広く顔を知られている証拠と佐那子は判断した。
 円が道で族と接近遭遇すれば高い確率で挑発的な仁義が切られる。
それでも、殆どのケースが下校時の決まった場所で発生した。
どうやら族の連中は、わざわざ“噂の円見物”にやって来ている。
佐那子は彼らの行動をそう解釈した。
煩わしくはあっても円が危害を加えられる可能性は低そうだった。
 珍獣扱いにうんざりした円が、気紛れにサムズアップでもしようものなら大受けは必至である。
空ぶかしするバイクのエンジン音に重なって、下品な歓声が上がったりもする。
なんとなれば、一部の族の間では人気者のカテゴリーで認識されている気配すらあるのだ。
ぶっさんの舎弟と成ったことによる功罪を考えてもである。
如何にもな微妙な立ち位置にいる。
そんな円の現状がよく現れていたと言えようか。
 

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