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東日本大震災1日目。

初めまして、しゅんたです。

東日本大震災から、10年が経ちました。
震災当時4年生だった僕も20歳に。10年という節目に、震災のことを残していきたいという思いが強かったので、こうして慣れないnoteを始めました。震災が起こった時、何をしていて、どう過ごしていたのかを被災した人の視点から綴ってみたいなと思います。


10年前のあの日、あの時間。

帰りの会をしていました(帰りの準備だったかな)。次の日は休みだから、友達と遊ぶ約束も立てていたし、家に帰ってからのドラえもんもクレヨンしんちゃんも、金曜ロードショーだって楽しみにしていたのに。

僕たちの「普通」はその大きな揺れによって、一気に壊されてしまいました。

机の下に隠れながらその強い揺れに、ただ呆然とするしかありませんでした。怖くて泣いている子もいたけど、僕の場合は怖すぎて涙すら出てこなかった。(強い揺れの部分をクリックすると、YouTubeにて震災当時の宮古市の揺れを見ることができます)

全校児童は50人弱と、とっても規模の小さい小学校に通っていました。
一旦校庭に避難したが、危ないからと体育館に向かうことに。
その途中、地割れを初めて目にします。本の中とか、祖父から地割れのことはなんとなくきいていたけど、体験するとは思っていませんでした。

そこから間も無くして、「大津波警報」が発令されました。小学校も高台に建てられていたが、学校の少し上にあった祖父母の家に全校児童は避難することに。


一瞬で変わり果てた大好きな街。


階段を登り、後ろを振り返ると、もう僕の大好きな街は無くなっていました。8.5mの高さがあった堤防を軽々と超えてくる、黒い色をした津波。
津波で流される家、車、それによって起こる砂埃。(津波の部分をクリックすると、YouTubeにての僕が住んでいた地区の津波の動画を見ることができます)

目の前で起こっている出来事なのに、信じられるはずもなく、只々ぼーっとするしかありませんでした。上級生が津波を見ないようにと、必死にバリアを作ってくれていました。当時小学5年、6年の子がそれをできるって、めちゃくちゃすごいと思います。

目の前の大人が、泣き喚く姿を見ていつもと違うことを察知してとても怖くなった。
津波も怖かったけど、それより大人のいつもと違う姿を生で見たのが怖かった。

その後、児童は祖父母の家で一晩過ごすことに。あの時、大人数を家に入れてくれた祖母にはとても感謝です。
現実味がない中、ラジオやワンセグから聞こえてくるのは、だんだんと高くなる津波の高さ予想のニュース。
3m、8m、10mとだんだん高くなっていく予想に、

「あぁ、もう普通の日は戻ってこないんだな」

と小学生ながらに感じたのは今でも覚えています。一緒に避難していた友達からも、「8mか、おばあちゃん大丈夫かな」「家大丈夫かな」といった声がたくさん上がっていました。今思うと、言葉にしないと自分の中で恐怖の方が勝ってしまうし、きっと誰かに大丈夫だよっていって欲しかったんだと思います。

外では、大津波警報の鳴り止まないサイレン、ラジオやワンセグからは緊急地震速報の不協和音。

和室2部屋に50人弱がいるので、体育座りでひたすら寒さと未知の恐怖に耐える日でした。
そんな中で、駆けつけてくれた親の人などがパンを買ってきてくれました。コンビニはほんとに品薄だったらしく、一人分は確かスティックパンかクロワッサン半分くらいだったけど、半分で幸せに感じました。こんなに食で幸せになれたのは、この日が初めてだと思う。その後に、他の児童のおばあちゃんが、おにぎりを作って持ってきてくれました。「これしか残ってないけど!」ありったけのお米で作ってくれたおにぎり。これが11日の夜ご飯でした。人の優しさをしみじみ感じた11日の夜ご飯でした。

停電していたし、水も使えないしで生きている心地がしない時間が続きましたが、寝れる訳もなく、2日目の朝がやって来ます。

2日目から小学校卒業までのお話は次の投稿で。

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