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19歳の“初期衝動”が“ビジネス”に変わるまでVol.02

〜前回のあらすじ〜


上京後、入学した服飾専門学校でコテンパンに打ちのめされた僕は、出会ったその日に付き合ったノンちゃんと一緒にブランド“banal chic bizarre”を始めることになる。

特にデザイナー志望でもなんでも無いノンちゃんが手掛けたドレープタンクトップが大ヒットし、僕たちは今までに手にしたことの無い額の資金を手に入れていた。



2002年11月


ドレープタンクトップが沢山売れた事で、金銭面以外にも大きく変わっていったことがあった。


それは取引先であるセレクトショップ“GIPSY”との信頼関係の構築だった。


この頃、まだ運送会社と契約して商品を発送するなんて発想が全く無かった僕らは、スタイリストバッグに目一杯に詰めた商品を毎週手持ちで納品していた。


今考えるとなかなかアホだなと思うのだが、このアナログなやり方のお陰で店頭スタッフとのコミュニケーションを頻繁にとることができ、スタッフさんは無知な僕らに様々な情報を与えてくれた。


当時ショップスタッフというのはファッションの道を志す学生にとって憧れの仕事の一つであった。


学校で「○○のスタッフと俺仲良いよ」なんて言ったら「マジかよ、羨ましい」ってなるような、誰でもなれる訳では無く、まさに選ばれし者が就く職業だった。

(勿論、今でもそういう店は沢山あるが、当時は話しかけることすら緊張するような店が多かったし、接客も全くしないくらいの店の方がクールとされていた)


スタッフさんとの会話の中でとても興味深かったのが、ドレープタンクトップの購入者の年齢だった。

基本的に僕らより年上の女性が買ってくれているそうで、自分たちより大人な人たちにも受け入れられるというのは今後のブランディングにおいて、とても大きなヒントになっていった。


このような事も踏まえて、僕とノンちゃんはブランドデビュー早々に、ある決め事をすることにした。


それは、



1、banal chic bizarreのデザイナー名、年齢を公表しないこと


2、より良いモノを作る為に、売上には手をつけないこと



すぐ人に自慢したくなる僕には苦行のようなルールだったが、買ってくれている年上の女性の方々が、あのドレープタンクトップがこんな19歳の若造が作ったモノだと知ったらどう思うだろう?


きっと洋服が急にチープに見えて、魔法が解けてしまうのではないだろうか?


一度解けた魔法を再びかけることは容易な事では無い。


その事にデビュー早々に気づけたのは我ながら流石と言いたいところだが、今になって考えると、年齢も経験も上のスタッフさんやショップオーナーさんの言葉を自分なりに解釈した結果のような気がする。

そうやって周りに助けてもらえたのも、非常に無知な若造だったからかもしれない。

納品書、請求書の書き方も知らないくらいだったから…


学校は辞めたものの、ブランドを通して現場で必要なことを学び、実践出来ている感覚を味わえたのは自分にとって勉学そのものだった。


専門学校に行かない方が得られたものが大きかった事から、“当たり前を疑う”という事がこの頃から身に付いたのは今でも大きな財産となっている。

(だから今僕は、自分の経験を基に既存のカリキュラムをぶっ壊す為に講師をやっている)



話がそれたが、もう一つの決め事である“より良いモノを作る為に、売上には手をつけないこと”もなかなかの苦行だったが、通帳にお金が貯まっていく感覚をポジティブに捉えたら逆に使いたくなくなってしまい、それから3年間、制作費以外には本当に手をつけなかった。


と言うのも、学校は辞めたものの、まだちゃっかり仕送りをもらっていた僕はそんなに生活していく事に危機感を抱いていなかった。


しかもバイトはしていない。

(危機感無いからね)


ノンちゃんの実家が米農家だったので、米が無限に送られてきていた。

ノンちゃんはミシンでドレープタンクトップを縫うのが上手になっていき、僕は負けじと米研ぎが上手になっていった。


ノンちゃんは朝から夕方まで大学に行っていた。


僕はノンちゃんがいない間、納品に行ったり、お洒落して原宿をぶらぶらしていたのだが、それでもどうしても暇。


ある日、なんのアテも無く渋谷を彷徨って、別に興味が無いのに東急ハンズに行ってみた。


そこで出会ってしまったのが、“Tシャツくん”。


簡単にシルクスクリーンが作れると書いてある。


値段も問題無く買える金額だ。


僕はこの“Tシャツくん”を衝動買いし、日中はプリント作業をするようになる。



時間は余るほどあったので、僕はプリントのやり方やTシャツの加工を色々と試行錯誤するようになった。


シルクスクリーンプリントで一番魅力的に感じたのは、全く同じように複数枚プリント出来ないイレギュラー性だ。


普通の人なら製版時に版が壊れてしまったり、プリントが綺麗に乗らなかったらそれを不良品と捉えてしまうところだが、僕はこの適当な性格のお陰で、版が壊れようと気にしない。インクがTシャツに飛び散ろうと気にしない。擦れてプリントされても全く気にしない。


それよりも大事なのはそのTシャツが格好良いかどうかだと思い、たとえ綺麗にプリント出来ても、それがどこにでも売っていそうなTシャツになってしまったら、その上から別の色を重ね刷りしたり、ボディをヤスリでクラッシュ加工させたりと、納得出来るまで手を加える事で同じものが2つと無い一点物を作っていた。



この手刷りのTシャツもお店での取り扱いが決まり、ようやく僕にも一つ自信の持てる自分のスキルを手に入れる事が出来た。


そして、ノンちゃんのササッと仕上げたカスタムTシャツに僕のプリントを入れた合作もようやく展開し始めるようになる。



ここまで順調に事が進んでいたが、ひとつ困った事が発生した。

それは、ノンちゃんのキャパシティ問題。

学生でありながら夜ミシンを踏んでいたノンちゃん。

店頭から求められるドレープタンクトップの枚数に対し、夜に作れる枚数が圧倒的に少ないのだ。


しかも新作を作る時間もなんとか土日を使って作業していた為、このままだと新たな新作も作れず、ドレープタンクトップ屋さんになってしまう…


ここで僕の悪知恵が働くことになる。



通帳に貯まった売上金を使いミシンを2台購入すると、それを僕とノンちゃんそれぞれの実家に発送した。

まだまだ19歳の甘えん坊である僕らは、子供の頼みを断れない母親にドレープタンクトップの縫製をお願いし、身内を使った縫製システムを構築した。

僕の母もノンちゃんのお母さんもとても優しい人。

ギャラなんて無くてもやってくれるよね。


二人ともパートから帰ってきたらミシンを踏んでくれるようになった。


数週間もするとお互いの母親で縫製の特徴が出だしていた。


僕の母親はとにかく丁寧。

静かなところで読書をするのが好きという、とても真面目な性格がそのまま縫製に反映されたような綺麗な縫製をする。


ノンちゃんのお母さんはとにかく早い。

どうやら昔はそこそこなヤンキーだったらしく、バイクを飛ばすようにミシンもかっ飛ばしていたのかもしれない。


この二人の特徴から、難しい縫製は僕の母、簡単でスピード重視の縫製はノンちゃんのお母さんと依頼を分けてお願いするようになっていった。



そして、二人とも商品を送ってくれる際にはダンボールの中に食品などの仕送りを同梱してくれるのだ。


縫製代ゼロ円で仕送り付き。

これも19歳の甘えん坊ならでは。

良い事しかないよね。


お陰で僕もノンちゃんも新作を作る時間ができ、新作がヒットした場合は親に縫製してもらう流れでキャパオーバーを解消していった。



しかし、このドレープタンクトップはそれでも生産が追いつかないほどのヒット作となっていった。


もう両親の手を使っても間に合わないし、新しいアイテムに割ける時間もあまり無いという状況をどうにかすべく、数ヶ月前まで一緒に夜遊びしていた先輩にこの事を相談してみた。


すると、「OEMに就職したから、そのタンクトップ俺の会社で作れるよ」と先輩は言う。


僕たちはOEMがなんだかわからなかったが、どうやらパターンや生地、付属、縫製を全て一括で行ってくれる仲介屋さん的なことらしい。


先輩は僕らのタンクトップを見ながら、

「これのパターン見せてよ」

と言うが、

「パターン?そんなの無いですよ。リメイクだもの」

と僕ら。



先輩はさらに、

「これいくらで売ってるの?」

と言うので、

「5000円です。適当に決めました。」

と僕ら。


しばらく無言の後、



「はあ!?安くない?」


と言った先輩の顔を今でも覚えている。


僕らは元々縫製代はゼロ円想定で売値も付けていたので、縫製代がかかるとなると絶対ハマらない金額。


今考えるとたった5000円の服をOEMが生産請け負うのは結構大変。


おそらく利益全然出ないから。


でも、先輩はとてもとても優しい人。


頭を悩ませながらも、このドレープタンクトップの量産を請け負ってくれた。


パターンを新たに作成し、生地は見切り品になった特価の生地(といっても品質が悪いわけでは無い)を使用する事でコストカットしていた。縫製代はどうしたのかわからないが、きっと先輩が頑張ってくれたに違いない。


実際、工場生産してからのドレープタンクトップは、ドレープ部分のボリュームが増し、自分たちで作っていた頃と比べると見違えるほどレベルアップしていた。


店頭でもウケが良く、一度買ってくれたお客さんがリピートして買ってくれるほど大ヒットした。



この夜遊びから始まり、洋服の生産をお願いする事になった頼りになる先輩、通称“てっちゃん”のお陰で僕たちはこのあと、当時一番取り扱って欲しかったセレクトショップへ置いてもらえるようになる。


そしてそのショップディレクターからの一言で僕たちは更なるステージへ上がることになる。


この時、まだ19歳。


上京した頃に漠然と描いていた夢は、いつしか実現可能な目標へと形を変えていた。



しかし、1年後に通帳の残高がたった65円になるなんて、この頃は知る由もない。


続く

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