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19歳の“初期衝動”が“ビジネス”に変わるまでVol.07

〜前回までのあらすじ〜

2002年、当時19歳だった僕は、彼女のノンちゃんと一緒にブランド“banal chic bizarre”を立ち上げる。2004年、新しく原宿にオープンした“device tokyo”に取り扱ってもらえる事が決まり順調に売上を伸ばしていったが、どうしても直営店を出したいという想いからノンちゃんの反対を押し切り、独断で店舗物件の契約を進めていた。



2005年8月


ブランドデビュー当時は19歳のクソガキだった僕とノンちゃんも気付けば22歳になっていた。


僕は店舗のオープン準備をしながらアルバイトをして日銭を稼ぐ生活をし、ノンちゃんは相変わらず表向きは大学生活を送り、帰宅後はbanalの仕事をやる日々を送っていた。


先月済ませた店舗契約は、大家さんに喫茶店で現ナマ(保証金)を渡すという異様な契約方法だったが、初の店舗契約だったのでそのやり方がかなりヤバいという事に気づくのはこの数年後になる。


あれほどの札束を持って移動する事なんて無いので移動中に凄く緊張したのを覚えている。


契約はトントン拍子で進み、アパートの賃貸契約と全く変わらない手順で店舗物件を契約出来てしまった。


専門学校にちゃんと通ってショップオープンのノウハウでも学べば違ったのかもしれないが、僕には全くその辺の知識も無い。

導線がどうとか、ラックの高さがどうとか全く知らなかったので、本当にノリで全て決めていた。


先に触れたように、僕はこの頃アルバイトをしながら店の内装工事を進めていた。


職種はテレアポ。

当時では高額の1500円という時給に釣られて始めてみたのだが、相手に粗相の無いように話さないといけないこの仕事がとてもお勉強になり、この頃の仕事のメールのやり取りはやけに丁寧な言葉を使えるようになっていた。

毎日午前中の3時間だけ渋谷でテレアポをやって、その足で原宿の店舗に行き、壁を塗ったり床を塗ったり。


内装工事に業者を使う気が無かったので、全て自分たちで作業していた。


自分たちでやれる範囲で安く仕上げる事をモットーにしていたので、材料は全て茨城のホームセンターで購入していた。


あとは外壁のブランドロゴもステンシルで塗ったりした。

このステンシルの型もいちいち発注したりしないので、のんちゃんが事務所で不要になったクリアファイルをカッターでくり抜いて一文字ずつ作成し、僕が脚立に乗ってラッカーでステンシルプリントして完成させた。


※画像が当時のものがなく、2016年のものしかなかった,,,


原宿に直営店をオープンさせるという事は、今までお世話になったdevice tokyoとの取引は終えなければならない。

ブランドには暗黙の了解があり、1都市1店舗しか基本取り扱えないのだ。(例外もある)

話に行ったところ、快く承諾して頂き取引を終えることになった。


deviceはその頃、オリジナルブランドに舵を切っていて、chokichokiに載っていた通称オシャレキングの人をモデルで使ったりしていた。

chokichokiは僕らより少し下の世代から人気があったこともあり、そのナルシズム全開の流行は僕や周りの友達にはちょっと敬遠された存在だった。


ちなみに周りの友達の中にはTUNEやFRUITSにもアレルギー反応を示す人も多く、まだあの雑誌載ってるの?とからかってくる奴もいた。


この頃のわかりやすくイケているメンズ雑誌の代表格といえばHUGEだ。

エディスリマンが手掛けるDior HOMMEが人気になり始め、パツパツのタイトな格好をしたモノトーンな若者が街に溢れていた。


僕も毎月買って熟読していたので、リバティーンやドクターロマネリの手刷りの物撮りを眺めて研究したり、ショップ特集で全国のイケてるお店をお勉強したりした。


会員制のセレクトショップだったCELUXや、その後のLOVELESSやColor by numbersを知るのも、HYKEの前身であるgreenを知るのも全てHUGEから得た情報である。


いつかはこういう雑誌に載れるようなブランドになりたいなと思っていた。


表がHUGEやMENS NONNOなら裏にあるのがTUNE、FRUITSの原宿ストリートスナップだった。


全くスタイルやファン層も異なる両者だが、この頃僕は表に憧れながら裏に載っていた。


この表の世界への憧れとchokichokiへのアレルギーのせいで、僕はこの後手痛い目に遭うことになる。



2005年10月


ブランド設立から丸3年の記念日にめでたく直営店ADDをオープンさせる事になった。


本当に低コストで作ってしまったので、木材代とペンキ代と什器代ぐらいしか掛かってなかったのでは?と思う。


スピーカーは、中学時代にシーケンサーをいじって下手くそなトラックを作っていた時に使っていたRolandのものを実家から持ってきた。

それに今では懐かしのI-podシャッフルを強引に繋げていた。



これが入り口。

2階の店舗なので、薄暗い階段を登らないと辿り着けない。



床は赤く塗り、壁は白く塗った。

洋服はbanalでは物量が足りなかったので、古着も買い付けて足していた。

古着を足していたから、足す、加えるという意味のADD(アッド)を店名にした。

しかし、この後すぐ古着を取り扱わなくなる。



バイカーブーツもイケてると思い沢山買い付けた。

ちゃんとした古着の買い付け方なんて知らないから、独自のルートで買っていた。



この頃の僕。

22歳。



オープン初日の夜にはレセプションパーティーを開催。


普段からよく飲む友達やブランドの先輩方が沢山来てくれた。

あとは会社帰りの父親も汗だくになりながら祝いに来てくれたのを覚えている。


ノンちゃんのお父さんからはこれどうすんだ?ってぐらいのでかい花が届いていた。


こんなに沢山の人からお祝いされて、とても幸せな気持ちになっていた。


ただ、その時来ていたメンズ雑誌のカメラマンの方に言われた一言で一気に酔いが覚めたのを今でも覚えている。


「頑張ってね。この物件、鬼門って呼ばれてるから。まだ誰も契約更新したことないらしいよ」


3年契約の物件だったので過去にこの物件を契約した方々は営業開始から3年保たなかった事になる。


特に先の事なんて考えてなかったから、漠然と不安になりながら翌日の営業を迎えていた。


1日目、2日目と早速沢山のお客さんが来てくれた。


どのくらい来たかというと、今現在に至るまでのお店の営業で一番人が来ていたのがこのオープン直後の一週間なのである。


お客さんに話を聞くと、deviceがウチの店の事を紹介してくれているらしく、deviceに来たお客さんがそのままADDに流れてきてくれていた。

その懐の深さには感謝してもしきれない。


そして、それから3日目になり、4日目になり、気づけばオープンから一週間経った。


順調に見えるかもしれないが、一つとても大きな問題を抱えていた。


この時、まだ売上ゼロである。



続く

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