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クリエイティブなど

いろんな人の文章を読んでいると、なぜ自分の文章はこんな書き方で定着したのだろうかと思うことがある。心地がいいと思う文体が蓄積され、同じように真似ているうち自分のなかで昇華されていったのだろう。

高校生の頃は国語が苦手という意識があったので、こんなにも文章を書くことが好きになるなんて思ってもみなかった。本だって、人よりもほんの少し嗜む程度だけど、自分の辛い時期を支えてくれたのが小説だったということが大きな理由なのかもしれない。

このnoteがあるからこそ、言葉を綴る習慣ができたという人も多いだろう。僕もそのうちのひとりで、やっぱり誰に向けた文章でないと言えど、読んでもらえるとすごく嬉しい。

そして文章には、普段には現れない、その人の成熟した心を見せてくれることもある。それに出会うことが出来る瞬間がたまらなく好きだ。いつまでも等身大の自分でいるからこそ、文字として出たそれは本心なのだと思う。偽っていたり誰かの目を意識した文章って、結構わかるものだ。

文章が上手になりたいと思い、ブログのような日記を書き始めたのは2013年ごろだった。その当時は、いまよりも凡庸で稚拙な言葉を並べることしかできなかったので、振り返ってみれば少しは成長したようにも見える。

時折、自分には書けないような表現や世界観、文体のリズムを感じる文章を見ると嫉妬してしまうこともあった。自分の文章と見比べてみて、条件を揃えるために同じ媒体に文字として起こし、どう違うのかを考えたりもした。

小説などでは情景描写に膝を打つ箇所がいくつもあって、そのたびにメモを残している。これらはいつか自分の言葉として使ってやろうと目論んでいて、自分の表現に馴染むまで寝かせているのだ。些細ではあるが、言葉ひとつで頭に思い描くシーンというのは全く異なる風景になったりするから面白い。

書きたいことが全く表現できなくて残念に思うときは、「クリエイティビティとはひらめきや衝撃を受けた何かを、机の前に座り努力し、形にすることから逃げないこと」という、テイラースウィフトの言葉にいつも感化され、励まされている。

おそらく日本語にすれば「机にかじりついて」くらいの強いニュアンスだったけど、思い描いていたクリエイティビティとは違い、地道で人間らしさがとてもいい。クリエイティビティとは、自己との対峙なのだと思っている。

一般的にはクリエイティブな人というのは、何かを生み出している人という認識だろう。勿論それで間違いないが、もっとミクロの視点である「自己との対峙」という部分が抜け落ちているように聞こえてならない。

何かを生み出すということは、自分なりの答えを形として表現するということであり、それは自己との対峙の結果なのだ。それらは入れ子のような構造になっていて、クリエイティブという言葉をその最も表面にある、「何かを生み出す能力」とだけしか認識していないかもしれないと、テイラーの言葉を聞いて思った。

文章を書くというのも、やっぱりクリエイティブなのだ。




多分それはたまたまのことだったのだろう。以前のお店で働いていたときのお客さんが、偶然いまのお店にいらっしゃった。

日本でビジネスをしている海外の方で、あまり詳しく話をしたことはない。彫りの深い端正な顔立ちで、白髪で肌も白く、銀縁の細いメガネをかけている。どんな日でも急いでいて、いつも決まってメニューにはないカプチーノを頼むのだ。コーヒーに関心があるようで、必ず「今日のエスプレッソの豆は何?」とこちらが提示する前から尋ねてきてくれるような人だった。

いまのお店にもカプチーノは置いていないが、決まって彼はメニューに目を通さずにカプチーノを注文した。それから、「今日のエスプレッソの豆は何?」とも尋ねた。

ブレンドで今は提供していると伝えると、シングルオリジンが良いというので、彼のためにエスプレッソの調整を行った。(バリスタなら分かると思うが、ホッパーを切り替えてリンスして、豆を詰め替えるのはかなり面倒な作業だ)目が合うと僕に気づいたようで、あれ?という表情になったが、特に何もない様子だったのを覚えている。

それから数日後、スタッフから僕を尋ねてきた海外のお客さんがいたという話を聞いて驚いた。海外からわざわざ?と思ったが、そんな訳はないので、思い当たる節は彼しかいないな、と思った。「バリスタは今日いる?」と尋ねられ、いないと返答すると帰ったのだと言う。

そして今日、また彼がやってきた。顔を合わせるといつものようにカプチーノを注文した。実は近くに日本で初めてポートランドからやってきた美味しいコーヒー屋があり、おそらくそっちの方が彼に取っては作業のしやすいお店なはずなのに、また足を運んでくれたのだ。

バリスタにとって、これ以上の喜びはないだろうと思う。彼の国の文化なのだろうか、彼の主義なのだろうか。バリスタという個人を尊重し、その人だからコーヒーが飲みたいと思うことって、日本ではほとんどあり得ない。それこそ名高い大会で優勝した人たちくらいだろう。

そういった人が周りにいてくれるという事実に嬉しくなって、もうちょっと頑張ろうと、折れかけた気持ちを支えてくれた水曜日。


ここまで読んでくださってありがとうございます。 楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。