C°(ドシー)恵比寿と故郷
東京は渋谷区。
恵比寿駅西口からほど近い「°C(ドシー)恵比寿」のサウナに入りながら、こう考えた。
人は誰しも、心の中に故郷を持っている。
私の理解では、ホームタウンとは、生まれ育った土地を指すのではない。
自分自身のアイデンティティを形成してくれた土地によって、後天的に宿るものが故郷であろう。
かくいう私は、19歳のときに地元を離れ上京し、この故郷という存在について考え巡らせてきた。
「自分の故郷はどこにあるのだろうか?」
誰しも一度は、思い悩んだことがあるのではなかろうか。
「故郷」或いは、こうも言えよう。
「帰ってくる場所」というのは、離れるや否や、認識できるのだ。
井の中の蛙大海を知らず。されど…
高校時代を思い返すと、私は地域活動に熱を上げていた。
それも、生まれ育った地とは違う、進学先の高校が所在する隣町の地方創生に乗り出したのだ。
土地を変えると、時間軸も、人間関係も、すべてが変わる。
辛い記憶で溢れている過去の人生と訣別したかった私は、自分のことを知っている人が誰もいない世界を生きたかった。
思えば、この意思決定を境に、私は自分の人生の主人公として生きていくことが叶った。
そして、全ての歯車が噛み合うようにして、人生のシナリオは勢いよく回り始めたのだ。
高校生ながら東京に行き、様々なビジネスコンテストに出たり、色々な人に出逢ったりもした。
当時の私は、水を得た魚のようだったろう。
もちろん、東京という大海に出たことで、愕然と打ちのめされることもあった。
しかし、だからこそ、そんな折には、我が故郷がもつ空の果てなき青さをも意識させられた。
そういう意味において、私にとっては19歳というのが、心に故郷が宿った時宜であろう。
さて、ここ「°C恵比寿」の魅力はなんと言っても室温の高さ。
先のように考え巡らせ、追憶に思い馳せるのも、5分ほどが限界である。
とはいえ、その思索している時間が本当に5分なのかどうかは、定かではない。
なぜならばここは、室内に12分計なし。テレビなし。
あるのは砂時計だけのシンプルな空間。
私がはじめて「°C恵比寿」に来たとき、随分とカルチャーショックを受けたものだ。
というのも、それまでサウナのルーティーンとして、2年ほどかけて設計し辿り着いた「黄金3セット(下記参照)」が崩れ落ちたからである。
【サウナ9分→水風呂→外気浴→サウナ11分→水風呂→外気浴→サウナ13分→水風呂→外気浴】
サウナ室に入ると、ペパーミントの良い香りが充満していた。
いつもどおり時計を確認し、座る場所を見定めたならば、いつもどおりのサウナだったろう。
だが、この日はそうもいかなかった。
砂時計の使命
いくら探しても、時計も、12分計も見当たらない。
なんとか見つけた砂時計からは、現在進行形で砂がこぼれ落ちている。
これはつまり、誰かがその砂時計を使っているということを意味するのだ。
いや待て、それは独り合点、はやとちりかもしれぬ。
こう考えることもできるのだ。
その砂時計は、誰の使命も預かっていない。
今はただ、前任者の名残りで稼働しているのみで、ひとり悲しく砂をこぼしているのかもしれない。
「もしかしたら彼は、私がヒョイと、その身体をひっくり返すのを待っているのかもしれないな。」
腰のあたりが妖艶にくびれている砂時計に対して、丁寧に手をさし伸ばしたそのとき。
下段に座るひとりの男性と目が合った。
一瞬の出来事だった。私はすべてを理解した。
サウナ室では、滅多に会話など発生しない。
そして、他人に干渉することもそうそうない。
この部屋にはルールがあるのだ。
素晴らしい。制約があるからこそ、この部屋のクリエイティビティは高まる。
それはサウナ室ごとに存在するローカルな規律だったり、グローバルな暗黙知だったりもする。
もちろんこの段階では、様々な可能性を同時に内包しているだろう。
いわばシュレディンガーの猫だ。あの実験も、ちょうどこんな部屋だったのだろうか。
だが少なくとも、こうして目が合うということに、意味が介在しない訳がないのだ。
私はこう見えて、争いを好まない。
スッと手を引っ込め、そっと上段に座る。
せめてもの、マウンティングかもしれない。
嗚呼、切ない。
普段の私ならば、はじめて入るサウナでは、まず下段の方から攻める。
買ったばかりのグローブに手慣らしが必要なように、そのサウナの全貌を掴むためには、徐々に温度を上げていく必要があるのだ。
にも関わらず、私はいま、自身の虚栄心によって、上段に座らされている。
えらく、熱い。
これは推測だが、私が入る直前に、この部屋の何者かによって、セリフロウリュウが行われた。
一体全体どのようにして、いつ誰がそのラドルを手にするのだろうか。
この部屋に入ってからというもの、皆の呼吸音以外はほとんど聞こえない。
あゝそうか、きっとこれこそが阿吽の呼吸であって、相応しい頃合いに、もっとも相応しい人がロウリュウをするのだろう。
私の考えがここまで漂流してきたときに、先ほど視線を交わした下段の男性が動いた。
砂時計には一切目もくれず、ラドルを手に取る。
ちょうど3回。サウナストーンにアロマ水をかけた。
そして何度か、手で室内を扇ぎ、暖かい風を全体に循環させたように見えた。
実に良い手捌きだった。
見惚れていると、スッと視界から消えた。
彼はもう、サウナ室を後にしていたのだ。
ロウリュウをし、自分はその蒸気を浴びずにその場を去る。
これは究極の利他愛なのか、好奇心からくる愉快犯なのか、判断に迷っている私は、もうすでに十分な思考ができないほどに、脳味噌まで温まっていた。
私は彼の後を追うように部屋を出る。
禊の滝行
外に出て、さらに既成概念を覆したのは言うまでもない。
そう、ここ「°C恵比寿」には、水風呂がないのだ。
そしてこのシステムによって、このサウナの評価は二分する。
頭上から水が降ってきて体をつたう「ウォーターピラー」は、水温が5種類用意されている。
15℃、20℃、25℃、30℃、季節によって温度変化を楽しめる常温。
ボタンを押すと、滝行が始まる。
いわばこれは、禊なのだ。
かくして邪険な思想は、すべてこの水によって清められる。
そんなことを考えている間に、私はすっかりと、このサウナに魅了されていた。
そうして月日は流れ、1ヶ月のうち14日ほどは「°C恵比寿」に出没している私は、なにを隠そう、ここをホームサウナと呼んでいる。
まだ見ぬサウナを目指し、どこか離れた地に遠征した夜。
寝る間を惜しんで仕事をし、疲れ果てた朝。
ふと、頭をよぎる安寧の地こそがホームタウン。そしてホームサウナであろう。
近くにいるときは、その存在についてメタ認知できない。
だがひとたび距離をとってみると、じわじわと心得るものである。