9/8 今も昔も最近のものは
シモーヌ・ヴェイユという哲学者がいる。教職に就きながらも「労働者の苦悩を真に感じるためには、彼らと同じ労働をしなくてはならない」と工場で一年間、過酷な労働に身を費やすなど、凄まじい行動力を持つ哲学者だ。三十四歳の若さで亡くなったが、死ぬ寸前まで思想と執筆を辞めず、文字通り命をかけて残した本の数々は、愛読書に欠かせない本として僕の本棚に置かれている。
彼女の工場時代を記録した「工場日記」という本の中に、印象的なシーンがあった。仕事の休み時間、労働者の一人が映画について語る際、
「映画はトーキーになってから駄目になった。喋らないからこそ、写真芸術の頂点として素晴らしかったのに」
と言っていた。今となっては馴染みがないが、元々映画は無声の映像にオーケストラの演奏を重ねる形で上映されていた。それが映像の中の人間が喋り出す、「トーキー」という今の形で上映されるようになった。その辺に関しては「雨に唄えば」という映画の中で詳しく描かれている。
映画は喋って当たり前の時代に生きている僕に、彼の気持ちは汲み取れないが、「最近の〇〇はダメだ」的なことが、第二次世界大戦頃の時代から言われていたということに、どこか面白味を感じた。その後、テレビがお茶の間に普及した時には、テレビタレントは映画業界の人々から白い目で見られ、YouTubeが誰もが見るコンテンツになった今では、テレビタレントたちがYouTuberたちのことを白い目で見ている。
新しいものは、必ず古いものたちからの反感を食らうようにできている。次にYouTuberたちが白い目で見るものは何か、僕には分からないがきっとそんな時が来るに違いない。温故知新という言葉は、きっと慣れ親しんだものに対して凝り固まった癖に向け、処方される薬として発明されたのかもしれない。
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