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【KYOTOGRAPHIE2021へ寄す】

 一晩の間に急に冷え込んだ京都、戸惑った木々が急いで老いた葉を風に散らせはじめた街では、半袖Tシャツ一枚の若者と早くも革ジャンを着込んだ背を丸めた僕が行き違う。Tシャツ一枚の若者と早くも革ジャンを着込んで背を丸めた老いた僕が行き違う。
 今年もKYOTOGRAPHIEを最後の週に行き当たりばったりに巡る。昨日はコロナ禍の世界の様相を三条京都博物館に、今日は朝から二条城で東北からの谺を。

 Erwin Olf という僕らの同世代の、すでに巨匠と言ってよい写真家が、おそらく僕らと同じ世代を生きてその終わりにはじめて直面するこの異様な世界に、しかも世界中が同じ光景を自分だけの場所で経験するという体験を、ふたつのシリーズで表現する。まず、最初に、エイプリルフールの我が町、我が生活のすべてが虚構になってしまったという驚きと戸惑い、不安を、自分自身の(白黒の)ピエロとなったポートレイトによって、ほとんど自虐的にとらえる。

 その半年後に、Olf は自分たちの存在の根拠を求めて、ヨーロッパ大陸の深い森への旅に出る。ほとんど古典的と言える構図で切り取られた大自然と、その中に点景として置かれる様々な人種と文化の中の人間たちの小さな物語の対照が素晴らしい。その絵画的な画面からは、おそらく今回のコロナウイルスの厄災のあらゆる意味での現代性にたじろがざるをえない僕らの世代は、最後のロマン主義の尻尾をひこずっているのだろうと思わされる。そのロマン主義の中にある人間性の探究が僕らの世代の最後の依り所であり、それが有効なのかどうか、僕らはおそらく死ぬまで問い続けるのだろうという啓示である。


 谺の章(2011年から今へエコーする5つの展示)では、運良く予約せずしてダミアン・ジャレの振り付けによる「防波堤」の映像を観ることができた。9人のダンサーが、ミニマムな音楽にのせて肉体の極限まで作り込んだ造形の迫力が、それがイキモノであることからくる微妙な9人の筋肉と呼吸によって作られたものであると気づくと、彼らが演じているのが、津波なのか、津波に吞まれてゆく人間なのか、わからなくなる。おそらく、どちらでもあり、どちらでもない。

 振り付け師によって肉体の極限まで追い込まれた彼らから波が引くとき、彼らの疲弊しきった体躯に濁流に折られた植物と死んだ魚と鳥と、彼らの無表情の上に死者たちの目が現れる。それでもなお、倒れてすら、明日のノアの箱船が造形される演出は、ほとんど死のエクスタシーに近づく。
震災というこの世の一時の出来事が、反転して、永遠となる。悲嘆も後悔も怨みも、祈りも渾然と昇華する。

 毎年、すごいものに出会える京都の秋である。明日からは、もう寒いという。
https://www.kyotographie.jp/

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