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この時代に(この時代だから)久野収を読み直す

(久野収「歴史的理性批判序説」岩波モダンクラシックス. 岩波書店. 1977/2001)

久野収が70年代に残した言葉が、今のコロナ禍の時代、特に感染症対策という統計的人間観が支配するこの時代の空気をみごとに予言し分析していると思う。

「専門的相対主義がファシズムの絶対主義と戦いうるためには〝寛容〟原理をこえなければならない。〝寛容〟原理の中にとどまるかぎり、ファシズムと反ファシズムの両方に〝寛容〟原理が適用され、各々の文化形態の専門的相対主義がそのまま絶対化され、自分の縄張りがおかされないかぎり、外側に対する寛容的〝無関心〟が支配する結果になるのである。こうしてファシズムと反ファシズムとの普遍的価値対立が中和され、両方への無差別的無関心がとってかわる。」

「しかし、だからといって、絶対主義によって〝寛容〟をこえようとするのは、自己をファシズム化するのと同じである。」

「何かをふせぐための〝寛容〟から、何かを実現するための〝寛容〟にすすまなければ、何に対して〝非寛容〟でなければならないかは、あきらかにならない。啓蒙的理性の専門家的理性への分化は、〝寛容〟原理のこの側面をあいまいなままで放置しているのである。」

              (久野収「歴史的理性批判序説」)

この直前にある次の言葉も、パンデミック対策という一種の「巨大科学」を支える専門家的理性の危うさと、専門的知性をもちながら「ムラ化」してしまうその本態をついている。

「〝寛容〟原理は、一方で、宗教的権威の独断的支配からの解放を可能にすると同時に、他方で、それにかわる合理的権威が、批判的理性から、実証的特殊専門家の手にうつされる過程を準備し、現在では専門家的権威の自明的支配とそのバラバラ的性格は、呪術のバラバラ的支配を連想させるところまで進行しているのである。」

 国民国家の成立と資本主義生産様式の発達によって、19世紀には自由主義的理性が前面に押し出され、やがて20世紀の市場支配的理性へと展開する。この背後で、かつての普遍的人間的価値、普遍的理念は脱色され、それ自体空洞化した空虚な言葉としてどのような政治的立場からも利害関心のもとに使われる符牒にすぎないものとなる。

 「平和」という言葉の持つ価値が空洞化し、「積極的平和」という言葉が権力の争いを隠すために使われる。「人権」という言葉の持つ価値が脱色され、政治闘争において互いに他をおとしめる道具となる(「犯罪加害者に人権はない」)。「自由」は自分らの利害関心に没頭して行動するための自由となる(「新自由主義」)。こうして、すべての人間的価値は貶められて、人々はニヒリズムと無関心の淵に沈むことになり、そこに独裁とファシズムがつけこんでくるのである。

 先に啓蒙的理性の専門家的理性への分化による専門家支配が人々の社会参加への動機づけを奪っていきファシズムへの警戒を失わせることを説いた久野収は、その次の章「自由主義的理性の運命」で、次第に人間的価値が殺されていく様をこのように述べた。

「・・・客観的理性の専門的理性化とそれにともなう専門知識の官僚化、独占化は、常識から普遍的人間的価値を脱色させ、そのかわりに、〝利害関心(インタレスト)〟を中心とする常識をいすわらせる。しかもこのようなインタレストは、各人に強すぎるくらい意識されながら、各人の理性的コントロールをこえるという意味において、社会全体をつらぬく盲目的経済力の函数にしかすぎない。こうして、インタレストは、理性に支配されず、かえって理性を手段化するのであるから、反理性の支配に対しても、損するかぎり反対し、得するかぎり支持するという結果が生じる。」

「資本主義の発展にともない、このインタレストの原理は、エゴイズムと結合し、社会的再生産の原動力と見なされ、最終的には、他の諸動機のすべてを抑圧する結果を実現する。」

           (久野収「歴史的理性批判序説」)

そうして、自由主義的理性が市場支配的理性へと展開するにあたって重要なのは、従来の「棍棒による人間支配」にかわる「先まわり的計算による人間支配」であり、それを補佐するratio的理性である。このあたりは、精神医学における操作的診断、DSM支配が製薬会社のもうけや精神医学の市場拡大にとどまらず、メンタルヘルスを一元的に管理し人々を支配するための道具となってくる事情にも通じるだろう。(今風にいえば「生権力」)

「もともと、市民的、啓蒙的理性がふかく数学の諸原理とむすびついて、自己の体系的、統一的性格を保持したのは、ヨーロッパの歴史そのものが実物教訓するとおりである。ところが数学は、ヘーゲルが指摘し、論理実証主義の論理学がみごとに証明したとおり、その根本において、「トートロジーの論理」と「確率の論理」である。「確率の論理」も、荒っぽい言い方をすれば〝繰り返し〟を通じて、〝新しさ〟にいどむ論理である以上、自己否定的発展の論理は、数学の論理には属さない。」

「問題はむしろ、数と数理が一方的に理性思考のモデルにおしあげられる市民的、啓蒙的理性の性格にある。数学が既成事実の最高抽象態をあつかい、既成事実の肯定を通った否定作業をあつかわないかぎり、数と数学的計算の優先は、それだけでは既成事実優先の立場をすこしもかえるものではない。」

「数学的思考の独占的支配は、裏側からみれば既成事実の永遠性の承認なのである。」

 このことは、私にとって精神医学の操作的診断の問題にとどまらず、医療観察法反対運動の中で、私たちが擬陽性問題として扱った、あやまって再犯の可能性ありと判断される少なからぬ精神障害者が、その間違い故に不当に長期にわたる拘禁を受けねばならないという人間的価値=人権の問題が、数理統計の〝確率的〟正しさを楯にまったく受け入れられなかったという苦い敗北の経験を思い出させるのである。

 さらに今、このコロナ禍の下、感染のリスクもその疫学的対策も、またワクチンのリスク/ベネフィットの考慮においても、すべてが統計学的な事象として処理され、個々の人間の実存が度外視されるばかりか、その復権を言うことすら統計学的事実の前に沈黙されられるという、統計学的超自我の支配というファシズムが社会を覆っている。
 たとえば、ワクチンの有害作用について、その因果関係の確定できなさが統計によって主張されるが、統計的有意性に達しないところで生じているかも知れない個々人の苦しみは無視され、却下される。
 だが、ワクチンについて懐疑的な声をあげる者は、数理統計の正しさが確率的であることを自ら知る限り、その正しさを否定しているのではない。その正しさが確率的という「本分を守って」人間的価値に奉仕することを求めているのだ。
 この統計的超自我に対する敗北は、私たちがその空洞化させられてしまった人間的価値の内実を取り戻さないかぎり、これからも繰り返されるしかないのであろう。


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