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母の死、認知症を抱えて逝くということ

    (「統合失調症のひろば」5号 日本評論社)

 昨年暮れ、母が亡くなった。十数年前から抑うつ的となり、パニック発作をたびたび起こすようになっており、もの忘れも嘆いていたが、大腸癌の再発で手術したのをきっかけに認知症が明らかになった。術後にせん妄状態による激しい興奮状態となり、薬物療法によって鎮静した後も意識障害が続き、数日して意識がはっきりしてからも混乱した言動が続いたのである。脳梗塞により体が不自由になっている老父と二人での生活が困難となり、50年近く暮らした土地から京都にあるマンションをバリアフリーに改装してひきとった。成功した開業医であった父の資産のおかげで、介護保険以外に私費による24時間の介護をつけることができ、生活そのものには何の不自由もなかった。

 それでも越してきた当初はご多分にもれず、新しい環境、特に周囲に介護がつくという生活に慣れずに混乱が続いた。物が無くなった、盗られたと言いたて、それまでの穏やかな表情がまたたくまに夜叉の顔に一変し、端で困惑する介護者をどこにその力があるのかという勢いで叩き、息子も見分けることなく金切り声をあげて暴言を吐く。周囲に人がいないのをうまく見計らって自分の手持ちのお金を引出やベッドの下に隠しては、すぐにそれを忘れて、なくなった盗られたと騒ぐことの繰り返し。どこまで続くこのぬかるみぞ、というのが、正直、介護者たちの実感であったろう。

 このような状態であっても、時にふと正気に戻る時がある。そんなときは、普段は親しんで信頼している介護者に、私、頭がおかしくなっちゃったみたいなの、怖いの、と漏らして涙したという。しかし、そうなるとこんどは抑うつと不安でパニック発作も生じ、本人にとっては病苦が増すばかりのようにみえた。

 父はそのような母をベッド上から叱りつけるばかりで、多くの老人を診てきた開業医ではあっても、やはり自分の身内は診れないという医者の宿命ゆえであろう、母の状態を受け入れることはなかった。そうこうするような毎日に不安と焦燥ばかりがつのるのであろう、うろうろしては転倒し、ついにはお決まりの大腿骨頭骨折をしてしまう。幸い、これも病院に通って世話をしてくれたヘルパーさんのおかげであろう、歩けるまでは回復しなかったものの、寝たきりになることはなく車椅子での生活となった。

 認知症のほうはといえば、泣いたり怒ったりの感情の起伏が小さくなるとともに、次第に言葉を失っていく。ものの名前がだんだんと言えなくなり、家族が誰かもわからなくなる時間が多くなる。最後の2,3年は喃語が聞き取れるだけで、そのぶん終始ニコニコと機嫌がよいことが多くなった。3年前に父が亡くなったときも、それを理解したのかどうかわからず、位牌や仏壇にも興味を示すことはなかった。しかし、24時間つきそっている介護者に言わせると、ずいぶんと長い間、仏壇のほうを向くのを嫌がっていたということである。
 私の両親の世代は、開業医の黄金時代であった。特に国民皆保険制度の直前に開業したこともあって、その地方都市の一角での有力者となっていた父は、また稀代の趣味人、放蕩者であった。放っておけば右から左に金が出ていくような父親の浪費を管理し、すり寄ってくる様々な思惑をもった人たちの相手をすることで、母は他人に容易に気を許さず、気位も高く毅然と接していた。そのような人が、今、言葉を失い感情も周囲への反応のみとなって、まわりの空気にあわせて機嫌よくしていれば、お地蔵様のようである。どこかに残る気位と、認知症の進んだお地蔵様のような純朴さが混ざり合った今の母は、看護者、介護者たちに不思議なくらい好かれて人気があり、大切にされた。寝たきりとなった死の直前まで、褥瘡ひとつなくいられたのも、ただ介護がきちんとしていたというより、介護者の愛情が込められていたゆえであろう。

 50歳になる以前から癌を発症し、その後何回かその再発を乗り越えてきた人であったが、一年前、激しく嘔吐した際に胃の下部、十二指腸の直前にかなり大きな癌がみつかった。それがいつできたものかわからないので、成長の速度もわからなければ、まして予後の予測はつけようがない。その大きさと、その時一時的にも閉塞が起こった状況からして、またいつ閉塞するかわからない。年齢から手術は難しく、また、認知症のために術後の管理ができるかどうかもわからない。胃と腸との間が塞がるのであるから、胃ろうも役には立たない。この時、家族も介護者も一致して、自然の経過にまかせて無理な延命はしない、このまま家で看取るまで世話することになった。消化管がつまって嘔吐したとしても、誤嚥に気をつけていれば肺炎で入院することもないし、肺炎だとしても入院してそのまま病院から出にくくなることを考えれば、そういう場合でも最後まで家で看たいという希望であった。

 それから一年、不思議なほど何事も起こらず、母はますます機嫌よく、血色すら日に日に良くなっていくようであった。デイサービスにも慣れたのか、以前のように周囲に気をつかって疲れることもなく、子どものように遊んで機嫌よく帰ってきて、ちょっと一眠りしてまた元気を取り戻して夕食をとるという生活パターンとなった。時には、ヘルパーさんが自分の自宅に連れて帰って、その近所の人たちと食事をしてくるということすらあった。私たち家族も、そういうことでもし何か事故があっても、老人はそうやってだんだんとポンコツになるのだから仕方ないし、本人が楽しめるほうが重要であるという気楽な考え方であったから、喜んでお願いしていた。

 それが、一年後の11月末、突然食が進まなくなったと思うと、少量の嘔吐をした。それからは急速に食事も水も通らなくなった。点滴は少量の皮下点滴だけとし、積極的な延命は行わず、蜂蜜を溶いた水を与えるとそれを数口だけ好み、そのようにして三週間、最後まで目の力もあり、介護者のおどけた話しかけに笑いもしながら、徐々に衰弱していった。最期は、下顎呼吸がはじまったという連絡が訪問看護からあり、私がその枕元に到着してちょうど三分後、ほとんど苦しむ様子もなく最期の一息を吐いて、逝った。まったく自然のままと言ってよい大往生であった。享年、米寿。
 重度の精神障がい者でもそうであるが、認知症の人も、末期の癌の痛みを感じず、死の恐怖に惑わされることがない。認知症が時に老いの恵みとも言われるゆえんである。認知症を多く診てきた大井玄も「認知症というのは、死の恐怖とがん疼痛を感じなくなるという終末期における適応のあらわれという側面がある」と言っている。実際、彼の調査によると、認知症の人はがんのすべてのステージにおいて22%しか痛みを訴えておらず、非認知症の人の8割が痛みを訴えるのと対照的であり、麻薬性、非麻薬性を問わず鎮痛剤をほとんど使用せずにすんでいるという(精神医療№75「認知症800万人の衝撃」)。

 母の場合も、死の一年前に消化管閉塞による嘔吐があり入院し、その時にはじめて胃幽門部にがん腫瘤がみつかった。しかし、消化管検査にもその必要性を理解できないために抵抗、苦痛が強く、その後の経過を内視鏡検査で追うことはしていない。また本人にもそのような心配はなく不調を訴えるわけではなく、毎日の流動食に近い食事をうまく味付けしてもらい、喜んで食べており、食欲はそれ以前よりも増したようであった。もし認知症でなければ、自分の病状への不安が頭から離れず、そのために日々の健康感は損なわれていたであろう。また、死の1ヶ月前にふたたび閉塞が起こり食べられなくなったが、与えられた蜂蜜水をおいしそうに飲むだけであり、介護者のおどけに対する笑顔は最期の日まで絶えることがなかった。幸いなことに、がんの腫瘤はほんの少しずつ肥大して、ある日消化管を塞いでしまうまで出血などがいっさいなかったことであろう。

 母が話しかけに対してすぐに笑ったり喃語で応えるのが早いので、周囲の介護者たちはお母さんはこちらの言うことはちゃんとわかっておられる、と最期まで言ってはばからなかった。しかし、医者としての目でみれば、母は刺激に対して自分に残された単純な反応をしているのにすぎないのであって、こちらの話を理解しているわけではないと思われた。熱心な介護者は、母に対してはい、いいえで応えられる質問をして、答えがあっているということを私に実演してみせるのだが、それとて最初から問い方のアクセントが違うので、その違いに反応しているだけとみえた。だが、私の冷静な職業的対応に比べて、24時間をともにしている介護者と母との間には、生活の雰囲気が共有されているのだ。それは、すべての理解ということの根底にあって、それを支えているものに違いない。そうであれば、やはり親しい介護者に対しては、母はすべて理解していたといってよいのだろう。
 最期の時には、ケアマネージャーをはじめすべての介護者が早くから駆けつけてきて母のベッドを囲んでいた。そこに私が現れて、母はそれまでの断続的に呼吸が止まり、ややあって潜っていた水から顔を出すようにブワッと息を吹き返しながら生を保っていたのだが、その様子は変わらないまま、きっかり3分後に最期の息を吐いて生命機能を止めた。肉親が駆けつけそれを待っていたように、それまで意識のないようにみえた病人が息をひきとるという、劇的な往生であった。

 やっぱり息子さんをお母さんは待っていたのよと、その場にいた皆は言うが、私は母にそのような状況の理解と意志が働いていたとは思えない。こういう場面はめずらしいことではない。それはおそらく、明晰な意識や理解、自らの意志という、個人に備わっている精神機能を超えたものなのだ。親しい人の最期を、その自然のままに看取るということで集まった人たちのかもしだすその場の空気、雰囲気、そして何よりもその場の人たちが私の到着を待つという緊張が、母の生命の緊張を保っていたに違いない。そして、私の到着をみて安堵した人々のそれが、その緊張を解いたのであろう。だから、母は自らの意志で死の瞬間を選んだのではなく、周囲の人たちとともに張り詰めていた生命力がふとゆるんだのだといえよう。

 認知症になるということは、それまではがんじがらめであった自己というカゴから解き放たれることである。自分が死ぬということの不安も、それゆえに増幅される身体の痛みも、自分というこの周囲から隔てられてあるもの、私の感じていること、私の考えていること、私の見ているあなたのことが、あなたには永遠にわからないだろうという理性の孤独に直面する恐怖である。あなたがあなたという別の存在ではなく、私というあなたたちと隔てられた存在を知ることもなく、ただ今絶えず感覚していることだけがすべてであれば、私の死も私の痛みも私の恐怖もない。認知症とはそのような世界を生きていることなのだろう。それゆえ、あなたがくつろげば私もくつろぎ、あなたが怒っていれば私も怒り、あなたが私の死を恐れていれば私もおののく。そして、あなたがたが私の死を受け入れるならば、私もまた何の苦痛も悔恨もなく、それを受け入れるだろう。

 大井は言う。「認知症は病気か、あるいは、人間の自然のあらわれかというのは、確かに両方の側面があるかもしれないけど、非常にうまくいった状態では、認知症は病気というよりは、むしろ死の恐怖とがんの痛みなんかを緩和するような自然の適応的プロセスであろうと考えるのも可能となる」、それゆえ「あくまで病気だという認識に基づいて治療方針なり何なりを決めるというのは、それは間違いです」と。

 しかし、私の母が得たような環境は、今の日本の社会ではそうそう得られるものではない。また、本人の病状をとってみても、「お地蔵さん」のような境地に達するまでには、やっかいな峠をいくつも超えなければならない。抑うつ的となって繰り言を周囲から煙たがられ、不安から何度もパニック発作をきたして夜中に家人を揺り起こし、もの盗られ妄想から諍いが絶えず、ふと徘徊して迷い子になって警察のお世話になる。周囲がそれに対処できるようになるまでに、そして次第に認知症が進むにつれかえってそのような問題行動と呼ばれる事態、周辺症状と呼ばれる激しい病状がなくなるまでに、多大な忍耐と余裕、時間、そして金銭的な援助が必要である。そのようなことはとうてい家族だけでできるものではない。それを援助する、あるいは家族に代わる社会の仕組みが必要である。

 ところが今は、認知症の予防と早期発見ばかりが叫ばれ、忌まわしいものとして遠ざけ、医療により克服すべき病気としか考えられていないようにみえる。

 だが、医療は、老い衰えることには勝てないであろう。

 医療では打ち勝てない病い、不調、苦しみは、これから先もずっと、人間にはいくらでもあろう。いずれ衰え死んでいく人間にとって、ひとつの苦しみの解決は、次の苦しみにつながる。古来人間の夢であった長寿が達成されると、認知症という新たな未知の恐怖が生まれたのは、そのことわりのひとつである。生存のための闘いから解放されると、人間関係の苦しみ、すなわち心の病が現れた。生存の脅威の前に、統合失調症はその危険を早くに感知し遠ざけるひとつの生き方であったかもしれぬことは、中井久夫がつとに指摘し続けてきたことだ。

 医療の進歩を願うこと、それを助けること、たとえば統合失調症という病気の大本になるメカニズムが解明されること、それを改善する方法、薬が発明されることは歓迎すべきことだ。だが、いま生きている人の生が幸福にまっとうされることを助け、いまの苦しみを和らげるための工夫や人手、資源を惜しんで医学の進歩に賭けるとしたら、それは希望の先送りにすぎないであろう。

 おそらく今の日本の状況の中では容易には達成できない手厚い介護を得て、本来家族ではない介護者たちに愛された母には、癌や認知症からくる病いの苦しみは、少なくとも最期の数年はなくて過ごした。

 そのために、最期を看取ってくれた私の友人でもある主治医と相談し、死亡診断書に書く死因は「老衰」とした。


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