九マイルは遠すぎ、コーラは重すぎる
平日の夜10時近く。激安スーパーから自転車を押した女性が私の前にふらっと現れた。50代くらいだろうか、私と同じ方向に向かって歩いている。
目の前の自転車のカゴをふと覗き込むと、黒いものが一杯に入っている。よく見ると、後ろのカゴだけじゃなく、前のカゴも一杯だ。その黒い物体の正体は、「コーラ」だった。大量のコーラは全部で100本近くあると思われた。
思わず口元が緩む。
どんだけコーラ好きなんだろう。特価だったのかな?
すると、女性が自転車にまたがった。だが、時間が止まったかのように動かない。おそらく3秒ほど時間が止まった後に、自転車が動き出した。
単純計算で500mlのペットボトル100本で50Kgだ。重くて動かなかったんだろう。「そんなに一気に買わなくても良さそうなのに」再び口元が緩んだ。
すると、自転車を漕ぐ女性が叫んだ。
「ちっくしょー重い! なんでこんな事になったー!」
一体彼女の身に何が起こったんだろう?
こんなことを考えたのは、「九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2) 」著:ハリイ・ケメルマンを読んだせいに違いない。
この作品は1947年に『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の短編小説コンテストへ応募し入選した、ミステリーの古典だそうだ。
短い文章から推論だけで謎を解く安楽椅子探偵として、その後のミステリに大きな影響を与えているらしい。実際、私がこの作品を知ったのは、「江神二郎の洞察 <江神シリーズ> (創元推理文庫) 著:有栖川有栖」に含まれる短編「四分間では短すぎる」で、紹介されていたからだった。
「推論というものは、理屈に合っていても真実でないことがあるのさ」
ニコラス・ウェルト教授はさらに続けた。
「試しに、短い文章を作ってくれたら、君が思いもしなかったような論理的な結論を導き出してみせるよ」
それに対して、物語の語り手が言った言葉がこの言葉だ。
「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」
この言葉、作者が当時教えていた英作文の教室での例題で、ボーイスカウトのハイキング計画からとった文章だったそうな。そして、そこから14年の歳月を経て、この作品が完成したそうだ。
これだけの短い文章から、次々に推理を繰り広げていくニコラス・ウェルト教授。
考えるにあたっての仮定はたったの2つだけ。一つ目は、話し手は実際に歩いたとすること。2つ目は、歩いた場所は、今いる場所もしくはその周辺とすること。
単なる思考実験のはずだったのに、推論を重ねていくうちに、実際に「九マイルもの……」を話した人物が、どこから歩いてきたか、何時頃に歩いたのか、そしてなぜその時間に歩く必要があったのか。次々と推論を繰り広げていくニコラス・ウェルト教授。そして、その推論に当てはまる場所や理由が次々と浮かんでくる。少しのヒントしかなかったジグゾーパズルが1枚、また1枚とピタッピタッとハマっていく快感。
人間の頭を使うことで、少しのヒントからでも、その背後にある事実に到達しうる。その事実に感動すら覚えた作品です。いや、小説なのはもちろんわかってますが、こんな風に思考することができたらきっと気持ちいいことでしょう。
そこで、先程のコーラの女性について考えてみると、
「なんでこうなったー!」
と叫んでいることから、予想してなかった出来事だと考えられる。予想してたら「ちくしょー! 重いー!」とだけ言うだろうし、そもそも予想してたなら、かんたんに持ち帰れる分量だけ買うよね。
500mlのペットボトルが100本は、いくら特価だったとしても一度に買うには多すぎる。1ケース24本だとすると約5ケース。自転車で買いに来るにはちょっと多すぎる。
となるとやはり、思いもしない事態が発生して、急遽100本近くのコーラを強制的に持ち帰ることになった、と考えるほうが自然だ。でもその理由とはなんだろう?
その日は、その女性の誕生日で、たまたま激安スーパーで知り合い数人に会い、コーラ好きの彼女のためにそれぞれが1ケースづつ購入してくれた? だとすると、ありがた迷惑で困ってしまうな。
元々、コーラを1ケースだけ買うつもりでお店に来たのに、今だけタイムサービスで5ケース一気に買うと80%OFFと言われて、つい買ってしまった? 自分の意志の弱さというか、舞い上がって買ってしまった自分自身に対して「どうしてこうなったー!?」と叫んでいたのか?
もしくは、お店で福引をやっていて、3等のコーラ1年分があたっちゃったとか? 本来は365本あたったんだけど、自転車のかごに詰めるだけ詰めて逃げ出して来たとか? 本当は1等の温泉旅行を目指していたのに3等だったことに対して「どうしてこうなったー!?」なのか?
うーん、わからない。私の力ではこの辺りが限界だ。どなたか、ニコラス・ウェルト教授に負けない推論力をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひこの謎を解いてみて欲しい。
わからなくても、こんな風に考えてるだけでも十分に楽しいのだが。
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