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学校の当たり前を疑うことは「世の中の当たり前」をも疑うということ。全教育者必読の教育論がここにある!【工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』】

結論から先に書くと、この本はいかにいまの教育制度がなんの疑いもなく「ずっとこうしてきたから」「よそも同じだから」という感覚で進められているのかが、たいへんよくわかる一冊である。もちろん教育関係者や教職を目指す学生に読んでほしい、しかし、この本は、教育畑ではない人にこそ手にとっていただきたい本でもある。

皇居や国会議事堂のすぐ近く、千代田区立麹町中学校には「宿題」「クラス担任」「中間試験」「期末試験」がない。職員室でも「○○先生」と呼び合うのが慣例である先生同士は、要職を除いて「○○さん」と呼び合う。これらすべて、著者である工藤校長が廃止したものである。

宿題がない。クラス担任もいない。中間試験に期末試験も廃止。世の中には「なくなってしまえばいいのに」とため息をつく(ついた)人は多いはずだが、本当になくしてしまうという発想に至った人はそんなにいないのではないか。みな「決まりごとだから」と渋々取り組んだ人のほうが圧倒的多数のはずだ。

それを、麹町中学校ではなくした。

誰もが経験していることを「なくす」ということは並大抵のことではないし、それができてしまうことに対して驚きもあるはずだ。この本の最大のポイントは、そこにある。

工藤校長は、この本の中でしきりに「目的と手段」の観点から制度を見直すことを力説している。

たとえば中間試験や期末試験。麹町中学ではこれがない代わりに単元ごとに試験を行ったり、実力テストの回数を増やす方式を採っている。そもそもなぜ中間試験や期末試験をするのかといえば「通知表をつけるため」にある時点の学力を評価する。しかし本来試験というものは「学力を定着させるため」にやらないといけないはずだ、と工藤校長は指摘している。

仮に試験前夜に一夜漬けして満点をとってもそれは「瞬間最大風速」であり、結局その後忘れてしまっては元も子もない。だからこそ「ある時点の学力を評価する」ということに意味がないのだ。それよりも試験で点数が良くなくても、その後時間をかけてマスターできればそれで良い。そっちのほうが「学力を定着させる」という本来の試験の趣旨に沿っている。

これ以外にも作文活動に対して、担任に「褒められること」「評価されること」、また「怒られないこと」を主眼として書かれているが、それでは本来の趣旨である文章を通して他社に考えを伝える能力が身につかない、と一刀両断されている。これも「目的と手段」を履き違えている一例だと思う。

また、工藤校長は、不登校の生徒に対しても面談で「学校に来なくたって大丈夫だよ」という言葉を残している。これは本当に大きいことだと思う。学校のトップである校長が、自ら「学校に来なくても進路を心配することはなにもない」と言っているのだ。工藤校長の言う「学校が「手段」の一つにしかすぎない」というのも、実に説得力のある意見で、不登校経験者である自分も大きく頷いた。

この書評の冒頭で、「教育畑ではない人にこそ手にとっていただきたい本」と評した。それはなぜか。職場や組織にはびこる意味のない「当たり前」を正すのはもちろんのこと、自分が気づかないうちに取り組んでいる「当たり前」さえも、一度疑ってほしいからだ。

この本は、学校現場を通して、日々やっている「当たり前」を根本から疑ってみることの大切さを、強く教えてくれる。


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