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非行少年に反省を促しても「それ以前の問題」である。【宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』】

教育畑でいま大きく話題となっているこの一冊。それは、帯に描かれている「非行少年が“三等分”したケーキの図」の衝撃によるものなのかもしれない。しかしこれは、この本を読んでいけば「そりゃそうなるわな」と思わず納得してしまう図でもある。

そもそも、非行少年は「反省すら難しい」のだ。

こう書けば語弊があるのかもしれないが、医療少年院などでの勤務経験がある著者が接してきた非行少年の中には、漢字や計算、かんたんな図形の書き取り、文章の復唱ができない少年が大勢いたという。

これができない、ということは、すなわち考える力というものが備わってない証だと言える。

考える力が備わっていないということは、先を読んで行動することができないということでもある。「これをこうしたらこういう結果になる」ということがわからないから、安易に非行へ走ってしまう。それに、漢字や計算ができないということは学校においても劣等生の扱いをされてしまう。出来が悪ければ叱られる。でも言葉の意味を汲み取ったり考える力がないからそもそも叱られている意味もわからない。そしてそのことに叱る側は気付かない。

結果ストレスやイライラが溜まる。そこに力の弱い存在、たとえば幼い子どもがいたとしよう。彼らは「先を読んで行動すること」も難しい。・・・もうここまで書けば、あとはどうなるのか容易に想像がつくのではないか。

おそらく、こういうところに気付いていない教育関係者が大半だと思う。僕も、子どものころはものすごく敏感な気質を持っていたことを誰にも気付いてもらえなかった(自分も気づかなかった)。そしてその敏感なことが発端で激しく叱られたこともあった。きっとボタンの掛け違いがあれば、この非行少年たちと同じ轍を踏んでいた可能性は往々にしてある。

口では「反省しろ」と言っても、その反省するという意味がわからない。そして本当は漢字も読めない計算もできない、学校で叱られっぱなしで生きづらさを抱えている。その結果「非行」として爆発としているのなら、ある意味こうした非行少年たちも「被害者」なのかもしれないとすら思う。

なお、気になった点もいくつかある。

まず、6章で触れられている「話を聞くこと」はなんの問題解決にもならないという点。これは、「話をする側」の視点が欠落していると感じた。「話をする側」が声に出して他者に思いや考えを伝えるということはそれだけで頭の整理にもなるし、もちろん気持ちを落ち着かせることにもなる。そこから新たな解決策が生まれない、ということもないだろう。逆に問題解決のために「話を聞く側」が口を出して余計にややこしくなることのほうが多いと思う。

そして、同じく6章の自尊感情について。著者は「自尊感情が低い、ということは問題なのか?」と疑問を呈している。そのうえで自尊感情が高すぎるのも問題だし、大人の自尊感情が低いのに子どもの自尊感情を上げるというのも変な話であり、そもそも自尊感情が低くとも大人は社会でなんとか生活できているではないか、と論じている。

これに関しては、自尊感情の高低が問題じゃないというのはわからなくもないが、問題なのはその「自尊感情が低くとも大人は社会でなんとか生活できている」ということではないか。

確かに傍から見ればなんとか生活できているかもしれないが、「何をやってもうまく行かない」「自分に自信がない」気持ちを抱えて日々生活するというのもものすごく生きづらい。そんな思いを持って毎日を過ごすことが是といえるのだろうか。それと百歩譲って「大人の自尊感情が低い」というのは認めても、じゃあ誰が子どもの自尊感情を高めてより生きやすい世界を作るの?という疑問もある。

以上2点含め、よくも悪くも「支援者目線」という本ではあるが、それでもなお教育関係者は必読であることに変わりはない。


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