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幸せは他人と比べたら永遠に手に入らないけれど、他人と比べないと感じられない

最近、仕事が落ち着いている。とはいえ、4月末までは地獄のスケジュールで原稿を書いていたが。じつはコロナウイルスの影響で発売日が倒れてしまい、なんと6月に3冊も刊行するスケジュールで動いていた。通常、1年かけて8冊くらい作るのが一般的ということを考えると、1ヶ月に3冊というのはとてつもなく多い数だということわかってもらえると思う。

3冊とも違う版元、それでも6月発売という同じ部分を持っているのでスケジュールはだいたい同じ。4月末までにぜんぶの原稿を書き終わらなくちゃいけなかった。

まあそんな苦労話どうでもいいのだけど。ときは5月。私は3冊の本すべてを脱稿した。急いでやるべきことが終わった。今日話したいのは、〆切を切り抜けた後の喪失感についてだ。

追われているものがなくなると、とたんに何をしていいのかわからなくなり、なにもないのに自分を責め始める。それがここ一週間続いている。自分のやるべき仕事は終わったはずなのに、あれこれ気になって心が落ち着かない。

昨日の夜、また暴れそうになった。心が不安定になり、虚無感でいっぱいになった。このまま生きていていいのか、この先もフリーでやっていけるのか、仕事が来なくなったらどうやって生きていこうか。ありもしない悩みがたくさんふってくる。私、ぜんぜん幸せじゃない、楽しくないモードに入った私は鬱になりかけていた。

そんなとき、旦那が言った。

「幸せは他人と比べたら永遠に手に入らないけれど、他人と比べないと感じられないんだよね。」

私は、幸せは個人の裁量で決まるものだと思っている。今、幸せと感じられたら幸せ。「おいしいケーキを食べた」から幸せと思う人もいるだろうし、「お金をたくさん稼いだ」から幸せだと思う人もいるだろうし、それは人それぞれだ。「今日晴れていたから幸せ」とかいう人もたぶんいる。旦那はいう、「朝起きて君がとなりにいるだけで僕は幸せ」だと。

私はというと、幸せの定義がわからない時代を長らく過ごしてきたせいで、幸せが何かわからない。まわりからみれば十分しあわせなのかもしれないが、自分の幸せに自信を持つことができない。他人と比べて、自分のできなさや不憫さなどのウィークポイントを見つけては落ち込む、を繰り返している。

仕事などやることのない今は、「ゆっくり休める時間だ」と思えば幸せに感じるかもしれないが、「なにもない=暇=クソ」と頭のどこかで自分を責めている。このままではきっと何をしたって、幸せを感じることはできない。

そして旦那はこうも言った。

「ひさ子ちゃんは、底なしの”幸せ飢餓”なんだね」

どこかで思考のシフトチェンジを行わないと、何をしても私は幸せを感じることができないと思う。なぜ素直に幸せを感じられないのか。窓から吹いてくる生ぬるい風にあたりながらずっと考えている。



今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!