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ひとが見えない文章の危険

ホームレス男性とデートのnote記事(リンクは貼りません)やらなんやらが話題である。私は叩いたりとか特にしたくなくて、ただ単に私が気持ちがいっぱいになってて、つらいので書く(不快に思ったらすみません)あの記事の何がしんどいのか、PRだったことを後出ししたとかそういう単純な話じゃない。みんながTwitterで言ってる批判内容もいろいろあって各々構わないんだけど、私は記事上で筆者がデートしたという男性の「背景」が何も伝わって来なかったことがすごくつらかった。その人がなぜその生活をしているのか、どんな人生を歩んできたのか、なぜ今ここにいるのか。こういう本が好きとかきのう何食べたとかそういうくだらないことでもなんでもいいのだけど。服がボロボロとか酒のにおいがするしないとかそういう外面で見える情報じゃなくて、人となりの話。現状あの記事からはひとが見えてこない。せめてその男性が生きている輪郭が見えさえすれば、こんな事態にはならなかっただろう、なんて考える。男性の実像が見えないからこそ貧困消費のような現状が起きると言ってもいいのかもしれない。ん、 新今宮を訪ねた若い女性と貧困ホームレスという構造を明確にしたかったからそういう人間的な要素をあえて削ぎ落としたのだろうか。いいや、土地のPRで人情を謳うようなプロモーションをしたいのであれば構成的にもなおさら削ぎ落とすべき要素ではなかったはずだ。誰かの人となりを書かないということは、そのひとのことを物として対象物として見ているのと一緒だ。私自身が、かなり弱い。メンタル的にも立場的にも。だから、自分と違う立場の人、弱いひとを、ただただ物として消費したり違いを恐れて相手を糾弾するしか選択肢のない世の中に、とても嫌気が刺してしまう。まるで自分が刺されたかのようにしんどくなる。弱い立場の人、心が傷つきやすい人、異なる何かを持っている人はいつもなぜか大勢に珍しがられる対象で、きっかけとして消費される。そりゃあいつまで経っても、みんなが言う〈多様性〉みたいな言葉には説得力が生まれないわけだ。弱者を感動ポルノ的に扱ってお涙物語にするんだったら、せめて弱者を救う物語を書いてくれよ。

このホームレスとデートの話が出たときも、cakesが「フィクションってことにしませんか」と作家に提案してたときも、かつて好きだった作家がDV被害を嘘だと言ってしまったときも、ホームレス観察日記を見たときも、ああもうこんな世界線がつらいよとなった。けれど、私はnoteだけでつながっているひとがいる。noteでつながったひとに助けられたこともある。フォロワーの書くものを見て癒やされる。noteがくれたことがある。だから、やめない。

私が好きな小説家やあの批評家やすごくいい視点で文章を書くあのひとだったら、新今宮のあの状況をどんな文章で綴るだろうかとずっと考えている。ホームレスとデートするの記事を読んでから、吐き出せず、ずっとずっと涙がまぶたに溜まって涙袋パンパンな状態でいた。弱いことがつらい。だけど今気持ちを文字にしてみて少し開放された。


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