駅前のコンビニがなくなった!

ふと気づくと、駅前のコンビニが閉店していた。
4,5日前もそこで買い物をしていたのだけれど、店はもうなかった。
ここのおにぎりがスキだった。けど、周辺にはこのチェーンはないので、
食べる機会が相当失われることになる。
不思議なことに、ボクを包んでいたのは、
驚きでもなく、淋しさや悲しさでもなく、喪失感でした。

ボクがこの町に引っ越してきた約25年前、すでにコンビニはありました。
新しい町に来て、あって安心するのはコンビニとスーパー、そして病院が、
間違いなく野球でいうクリーンナップの3番、4番、5番でしょう。

そんなクリーンナップの一角が忽然と町から消える。
まあ駅横には、本屋跡にできた別チェーンのコンビニがあるけれど、
夜、駅に着き,ホッとした目に飛び込んでくる、この店の明るい光は、
間違いなくこの駅を利用する人たちの生活の1ピースでした。

引っ越した新しい町が嬉しくて、探索の途中にその店に入ったこと。
めったにそんなことをしないのに、亡き奥さんがポイントカードを作って
帰ってきて嬉しそうに見せて、ボクも欲しくて走ったこと。
急遽、友人が来ることになって、酒用の氷を買ったこと。
何か公金の支払いで用紙を出したら、支払い用紙を切り離していなくて
バイト君に「チッ」とされたこと・・・。
どの町にも、どの家庭にもあるような思い出がたくさんあります。

たかがコンビニが、経営的なバランスで閉店しただけなのでしょうが、
ボクが受けた感覚は、誰もが知る町の大きな樹が切られたと同じような
ポッカリと大きな穴が開いたような空虚感でした。

大樹には魂が宿るといいいます。
人ひとり生まれ、そして死ぬまでを、一本の大樹が見つづけていた。
そんなストーリーも良く聞きます。
その人にとって、近くにあって当たり前だった一本の樹が、
ある日、自分にとってかけがえのない思い出の中にいることに気づいた時、
人は人生の面白さに気づき、有り難さに感謝するのではないでしょうか?

今、神宮外苑の多くの樹を切っての開発が問題になっています。
その政治的問題に首を突っ込むつもりはありません。
が、いったいどれだけの人の思い出に、あの外苑の木々は大きな存在として
残っているのか、日本のこの150年の様々な場面での重要な舞台と
なったのかと考えると、
簡単にビルやマンションやショッピングモールに変えてしまうのは、
あまりにも残念な問題の気がします。
いかにも歴史や精神的価値よりも、経済を優先する国らしい寂しさです。

話が大きくなりすぎました、
たった一軒のコンビニがなくなっただけの話です。
でもそこが自分にとって大切な思い出の場所であれば、
寂寥感のような感情が溢れるものです。

奥さんとの記憶から、彼女が思い出に存在する人となり、
その記憶の舞台だった一軒のコンビニが消えて、記憶から誰もいなくなる。

そんなことは、ごくごくあたり前に私たちの周りに起こること。
そして、それの中で寂寥感を抱くからこそ、また思い出や記憶が、
自分の心の中でちょっとだけ美しくなっていくのです。

そんなことを、看板も取り外されて、すべてのガラスにビニールが貼られ、
呼吸も止まり、感情さえなくなった店舗を見て思ったのでした。

ボクの町から、またひとつ大切な風景が消えました。
でもまた次の風景が生まれ、新たなストーリーが始まるでしょう。
その日を、そのストーリーを楽しみにしています。

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