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おこさま

 仕事から帰り、玄関のドアを開けると、妻の不機嫌そうな顔が私を出迎えた。思い当たる節はないが、私はできるだけ妻を刺激しないように、玄関のドアをゆっくりと、音を立てないように閉めた。蝉の声がすっと遠くなる。キッチンの方からは、肉じゃがの甘い香りが漂ってくる。
「ただいま」
 私が恐る恐る言うと、妻は、
「おかえり」
 と言い、それから子ども部屋の方に視線を移して、あからさまにため息をついた。その様子からして、どうやら私に怒っているわけではないらしい。
「姫がまた何かしたの?」
「今日、あの子が虫を持って帰ってきたのよ。本当に気持ちが悪い。捨ててきなさいって言っても、まったく言うことを聞かないの。パパからも強く言ってやって」
 妻はそう言って、またため息をつきながらキッチンへと戻っていった。
 ただいま、と言いながら娘の部屋に入る。ランドセルは床に投げ捨てられており、絵の具セットや習字セット、植木鉢までもが部屋のあちこちに散乱している。きっと、今日、学校の荷物を全て一気に持って帰ってきたのだろう。
 娘は、
「おかえりい!」
 と朗らかに言って、掌にのせた虫を私に見せてきた。
 ――蚕である。
 娘の爪は、その隙間に入った土で黒くなっており、掌でよろよろしている蚕の上品で病的な白さとは対照的である。もう四齢くらいだろうか。私の人差し指の半分ほどの大きさで、すでにずいぶん立派である。あと十日もすれば営繭を始めるだろう。
「蚕じゃないか。どこでもらってきたの?」
「パパ知ってるの?」娘は目を円くして言った。おそらく、妻にはこれが蚕だと分からなかったのだろう。「ともだちにもらったの」
 勉強机の上に置かれている箱を見ると、中には数頭の蚕の幼虫が土塊の上でじっとしていた。
「桑の葉はもらってないの?」
「なにそれ?」
 娘は掌の蚕をつまんで、箱にそっと戻しながら言った。
「蚕のごはんだよ。蚕は桑の葉っぱしか食べないんだよ」
「え? ごはんもいっしょにもらったよ。ほら」
 娘は箱の中の土塊を指さしている。顔を近づけてよく見てみると、蚕の幼虫たちはそれを熱心に食んでいるではないか。どうやらそれは土塊ではなく、人工飼料であるようだった。
「へえ、今は蚕のごはんもあるんだねえ。パパも姫くらいの歳の頃におばあちゃんと一緒に蚕のお世話をしたことがあるんだけど、そのときは、おばあちゃんに『お蚕さまのごはんを取っておいで』って言われて、毎日桑の葉っぱを取りにいかされてたけどなあ」
 私は昔を懐かしみながら言った。思い返せば、私は祖母から蚕についていろいろと教えてもらったのだった。
「おこさまってなに?」
「蚕のことだよ。蚕は人間にとっていいことをしてくれるから、昔は『お蚕さま』って呼んでたみたいだよ」
「ふうん、そうなんだ。なんだか子どもみたいだね」
「そうだね」私を見上げる娘の頭を撫で、「もうごはんの時間だから、早くお風呂に入っておいで」と言い、私は部屋を出た。

 親子三人で食べたその日の夕食は、言うまでもなく気まずいものだった。妻は終始無言で、まるでタスクをこなすかのようにごはんを口へと運び、たびたび私を睨んだ。私はそれに気づかないふりをして、ママのごはんはおいしいなあ、と半ば独り言のように、そして半ば娘に話しかけるように口に出したのだが、娘の念頭には蚕のことしかないようで、ごはんをかき込みながら生返事をしただけだった。
 やがて、娘は「ごちそうさま」と言って、茶碗を流しへと持って行き、そのまま自分の部屋へと入っていった。
「ちゃんと言ってくれたんでしょうね」
 妻は譴責するような調子で低く唸った。これが質問ではないことは明らかであったが、今回はどうしても、いつものように妥協してはならないという気がした。
「あれは蚕だよ」
 私は茶碗をテーブルに置き、妻の目を見て言った。
「だからなに? 虫でしょ? 気持ち悪い」
「別に姫が自分の部屋で世話する分にはいいだろう。今日から夏休みなんだし、あの子だけでちゃんと世話できるよ」
「脱走したらどうするわけ?」
 妻は声を荒げ、箸をテーブルにたたきつけながら言った。
「蚕は脱走できないよ。風が吹いただけでも倒れるくらい弱い生き物なんだから。成虫になっても飛べないし」
「あんな気持ち悪い虫がうちにいることがイヤだって言ってんの! だいたい、女の子なのに私が買ってきた花には全く興味なし、それで気持ち悪い虫を一日中眺めてる。あんたが悪影響を与えてるのよ。授業参観に行くこっちの身にもなってよ。あの子、学校でもあんな様子なんだから。本当に恥ずかしい」
 私は椅子の背もたれに背中を預け、腕を組んで一呼吸置き、そしてこう訊いた。
「姫に怒ってるの? 僕に怒ってるの?」
「両方」
 妻は食べかけのごはんをテーブルに放置し、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、寝室へと消えた。
 テーブルには妻の食べ残しと、彼女が買ってきて花瓶に挿したマリーゴールドがある。妻の食べ残しを食べながら、私はふと、マリーゴールドの花言葉は何だろう、と思った。だが、わざわざ調べる気も起きず、私はただただ残飯を口に運んだ。
 彼女と結婚したのは、彼女が妊娠したからで、いわゆるデキ婚というやつだった。彼女は子どもができたことを欣喜雀躍といった様子でたいそう喜んでいたが、私はその喜びを共有することができなかった。私は秘かに、自分の不注意を後悔し慚愧した。もちろん、そんな様子はおくびにも出さなかったし、妻も私の本心には気づかなかったはずだ。しかし、日々膨らんでゆく彼女のお腹を見ては、私の中の罪悪感も徐々に大きくなってゆき、言行の規矩を踰える愚行で全てを終わらせようとしたこともあった。今では、かつての自分が道を踏み外さなくて良かったと思っているが、当時は、怖くてたまらなかったのである。何が怖かったのか? それは、やがて生まれてくる子どもが、自分のような人間になりはしないかということ、つまり、普通のひとには容易にできるようなことにいちいち躓き、そのたびに自分の無能を呪詛する言葉を吐くような人間、自分がこの世に生を受けたという退っ引きならない事実、あるいは自分をこのような無能として産み落とした原初の暴力を恨みながら、それでいて自ら命を絶つ勇気すらないような、そんな人間になりはしないかと恐れていたのである。それと同時に、自分を産んだ両親――二人の記憶はほとんどないのだが――を散々憎んでいながらも、そんな私が親となることに対する罪悪感、そしてまた、私もまた同じように、ゆくゆくは我が子に憎まれることになるかもしれないという恐怖にも苦しめられていた。彼女の子宮は、私にとってはダモクレスの剣のごときものだったのだ。
 幸か不幸か、妻のお腹は順調に大きくなり、やがて娘が生まれた。母子ともに健康だった。はじめの一年は、何から何まで初めてづくしで、毎日てんやわんやだったのだが――突発性発疹のときは、二人ともこの世の終わりといったふうに狼狽した――、やがて娘の世話に余裕が出てくると、私は家を空けることが多くなった。日に日に人間らしくなってゆく娘を見ているうちに、どうもいたたまれなくなったのである。あなたが私を無責任な親と呼びたいなら、それでもよい。私はそれを止めはしない。だが、そのかわり、親としての責任を果たすということがどういうことなのか、私にも分かるように説明してほしい。親はみな罪人ではないか。私たち親にできることは、償い、ただそれだけである。
 そのあとのことは言わなくとも分かるだろう。産後の恨みはなんとやら、である。以来、私と妻の間をつなぐのは、娘の存在、それだけである。二人とも、お互いのことを愛してはいない。ただ親としてのロールプレイを続けているだけだ。
 そんな二人に育てられているにも関わらず、なぜか娘はとても良い子に育っている。心の内では秘かに両親のことを軽蔑しているのかもしれないが――というのも、私自身、娘くらいの歳の頃には、すでに大人たちを下に見ていたのだから――、たとえそうだとしても、それを気取られないほどには老成していると言える。このまま、私のような堕落した人間にはならずに、普通の大人になって欲しいと思う――本当に?
 自分の子どもが被害者か加害者のどちらかでなければならないとしよう。その場合、親は――普通の親は――どちらを望むものなのだろうか。我が子が被害者になることを望む親は、親として失格なのか? もちろん、どちらでもないことが最も望ましいのだろうが、こんな世界に生きている以上は、そんな望みは浮世離れした絵空事でしかない。娘は私にとって被害者か、それとも加害者か。私は娘にとって被害者か、それとも加害者か。生まれることそれ自体が、被害でもあり加害でもあるのではなかろうか。
 そんなことを思いながら、私はリビングのソファで眠りについた。

 娘が蚕をもらってきてから約一週間がすぎたある日、私が家に帰ると、娘はドタドタと私のところへ走ってきて、その場で何度も跳ねながら、
「糸だしてる!」
 と報告した。
「そろそろかなあ、と思ってたんだよね」
 娘の部屋に入り、箱の中を見てみると、何頭かの蚕がまぶしの中で営繭を始めていた。まぶしとは、段ボールや厚紙などを格子状に組み合わせた蚕が綺麗に繭を作るための部屋のことである。あらかじめ娘と一緒に作っておいたのだ。
「うわ、おしっこした!」
 娘が一頭の蚕を指さして、ケタケタ笑いながら言った。
「蚕は一生で二回しかおしっこをしないんだよ。繭を作るときと、あとは繭から出てきたときね」
 娘は蚕の排泄のことでまだ笑っており、私の言葉は耳に入っていないよう思われたのだが、ひとしきり笑ったあと、娘は、
「まゆから出て、水をのんでおしっこしたくなっても、がまんするの?」
 と訊いた。どうやらきちんと聞いていたようである。
「蚕は成虫になったら何も食べないし、何も飲まないんだよ」
「えっ……」
 娘はそれが意味することを直ちに見て取ったようで、絶句した。そして蚕へと視線を移し、懸命に糸を吐き続ける蚕を凝視した。
 私は、娘が蚕をもらってきた時点で、その結末をすでに知っているものとばかり思っていた。しかし、今、冷静になって考えてみると、この一週間、毎日献身的にお世話をしてきた蚕たちがまもなく死ぬのだということを娘に伝える方法としては、私のやり方は思慮が足りていなかったと認めざるをえない。娘の目には、蚕はまるで自らの棺を紡いでいるかのように見えているのかもしれない、と想像した。
「まゆから出てきて、どれくらいで死んじゃうの?」
「あんまり覚えてないけど、一週間くらいかなあ」
「そっか……」娘は意外にも冷静な調子で言った。「じゃあさ、蚕たちはなんのために生きてるのかな」
 私は、娘の問いにどう答えるべきか、分からなかった。蚕は何のために生きているのか。それはおそらく、人間のためである。人間がその繭を利用するためである。しかし、これを娘にそのまま伝えることは酷だろうか? 私は慎重になっていた。
「そうだねえ」
 私は生返事を返し、頭の中では娘の問いを転がしていた。人間のために生きる蚕の一生は可哀想なものだろうか? おこさまの生の意味とは、一体何なのか――
 蚕は頭を上下左右に振りながら営繭を続けている。その様子をしばらく見ていると、私はあることに気づき、慄然とした。糸を吐く蚕の頭部の軌跡が∞の形を描いているのである。私は、蚕たちの刹那の一生が、まるで一本の糸のように連綿と続いているところを想像した。その糸はどこまでも続き、はじまりも終わりも見えない。いや、ひょっとすると、その糸には両端がないのかもしれない。まるで摩天楼から下を見下ろしたときのような眩暈に襲われ、私はただ生命という謎に窅然とするばかりであった。
 ちょうどそのとき、私の思考を遮るように
「ごはーん」
 という妻の声がキッチンから響いてきた。
「いこっか」
 私は娘の頭を撫で、二人でリビングへと向かった。
 その日、娘は珍しく夕食を残した。

 蚕が繭に引きこもってからというもの、娘は蚕への興味をすっかり失ってしまったのか、それまでは毎日、口を開けば蚕の話をしていたのに、今では他の虫を捕まえに外を走り回っている(妻は一度、繭を見に来た)。今や、娘は蝉を捕まえることに夢中で、一匹捕まえるごとに、木陰で休んでいる私のところに、虫かごが揺れることは歯牙にもかけず――虫かごの中の蝉は、天変地異に絶望の叫びをあげている――、全速力で走ってきては、つかまえた! と報告をしてくれる。私は娘の汗を拭き取りながら、姫はすごいなあ、と(心から)感心する。
 私たちは去年、つまかえた蝉を家に持って帰って、妻に大目玉を頂戴した。夜は鳴かないからと、私も娘の側に立って弁護を試みたのだが、糠に釘で、二人で肩を落として蝉たちを逃がしたのであった。それを教訓にして、ひぐらしが鳴き始めるころには、虫かごを空にして帰路についた。娘が文句一つ言わずに蝉たちを逃がしてやるものだから、私は娘の物わかりの良さに惻々としたものを感じ、この哀れな娘に何かをしてやらなければならないとの義務感から、帰りにコンビニに寄って、ママには内緒ね、と言って、アイスを買ってあげた。アイスは良い子に振る舞ったご褒美ではなく、むしろ私の償いだったのだ。
 余映に染められた歩道を歩きながら、私は娘に先刻から気になっていたことを訊いてみた。
「姫はどうして蝉が好きなの?」
「元気でおもしろいから!」
 娘が蚕を愛でていたのは、蚕が眠ることなく一日中食べ続けていたからなのだろうか、と思った。確かに、動かないものは面白くない。盆栽や水石の面白さは、私にさえ分からないのだ。
 と同時に、私は蝉と蚕の奇妙な対照に心惹かれた。どちらも一夏の命である。だが、両者の間には決して架橋することのできないほどの深淵が横たわっている。蚕は決して自由には飛び回れない。ただ人間の掌で蕩揺するだけの一生。日に焼けていない、蝋燭のような色の皮膚は、ひんやりとして滑らかで、まるで、死そのものの触り心地のようである。蝉の迸る生命力と、蚕の冷暗の影。
「たべおわった!」
 アイスの棒を私に差し出す手は、溶けたアイスでベトベトになっている。娘の服もまた、染みだらけになっていた。自分の考えに没頭していて気がつかなかったのである。私は、帰宅してすぐに、妻にばれないように娘を風呂へと連れて行き、証拠隠滅を図ることにした。

 娘の夏休みも終盤にさしかかったある日、ついに蚕が繭を突き破って羽化した(無事成虫になったのはこの一頭だけであった)。全身が柔らかな毛に覆われていて、昆虫というよりむしろ動物のようである。動きも緩慢で、ときおり触覚を繕うさまなどはぎこちなく、幼気でいじらしい。娘も、はじめは、おしっこした! などと言ってケタケタと小気味よく笑っていたのだが、蚕が弱々しくはばたく様子を見ているうちに、娘の表情は翳った。
「よわってるの?」
「翅はついてるけど、蚕は飛べないんだよ」
 娘は何も言わず、部屋を出て行った。

 娘はそれから、蚕の話をあからさまに避けるようになった。蚕は狭い箱のなかで終日行ったり来たりを繰り返し、ときおり翅をパタパタさせてはただ死を待っていた。わずか15㎝の壁を越えることもできない蚕が哀れでたまらずに、人工飼料を蚕の目の前にひとかけら落としてみたのだが、蚕がそれを食べるはずもなく、私の徒な憐恤も、蚕の悲哀を一層深めるばかりであった。
 やがて、娘の部屋の隅に追いやられた箱の中で、蚕は死んだ。蛍光灯に照らされた乳白色の物体は、脚を折り曲げて倒れており、一層小さく見えた。
 私は娘に蚕が死んだことを伝え、一緒に埋めに行こう、と誘った。娘はコクりと頷き、下を向いたまま私のあとについてきた。
 公園の木の根元に小さな穴を掘り、ついぞ日を浴びることのなかった蚕の死骸を横たえ、私は娘にスコップを手渡した。
「埋めてあげて」
 娘は静かに泣いて、いつまでも土をかぶせることができなかった。
 私たちの頭上では、無数の蝉がけたたましく鳴いていた。

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