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宝塚ファンを25年やって思う“娘役“の処遇と存在の普遍と正当【娘役スター有沙瞳の誕生日に寄せる】

銭ゲバ八重歯の話が再開したところですが、どうしても書きたい話が発出したので失礼します。

突然ですが、今日8月4日は掲題の通り、宝塚歌劇団娘役スター・有沙瞳さんの誕生日だそうです。8月生まれなのは知っていたんだけど、改めて今日という日に生まれたことにちょっとした縁を感じる(詳細は後ほど)。

私は過去記事↓でも数回明かしているように、生粋の星組過激派ファンで、星組の前トップスター・紅ゆずるさんのファンだったのですが、その主演就任と同時に、雪組から星組に組替えしてきたのが有沙瞳ちゃんでした。

雪組時代は『伯爵令嬢』しかちゃんと観たことがなく、演技の上手な子だなとしか思っていなかったのが、過去の『銀二貫』や『ドン・ジュアン』などの映像視聴を経て深く知り、強く興味を持ちました。

また、美容業界誌編集という専門性を持って申し上げるので偉そうなのは勘弁して欲しいのですが、星組に来てからヘアメイクの技術を始め、瑞々しく美しくなっていく彼女にどんどん惹かれていきました。

ここまで熱弁すると
「へえ、七島さんってそんなに、有沙さんのファンなんですね!」
って、思われるかもしれない。

が、それってそうであって、そうじゃないというのが今回の本題です。

こんなに、こんなに、彼女が大好きなんだけど、「好きな娘役を一人に絞ってください」と言われると頭を抱えて悩み、仮に「一人に絞らないと殺すぞ」と言われたとしても選べない。

でも、有沙に対する俺の気持ちは誰よりも本物である(誰)。

この気持ち悪いクソデカ感情に気づいた時、ずっと私の中でモヤモヤしてきた、「“娘役“という存在に対する世間の目(主に批判)」に対する私なりのアンサーが見えてきました。

今日はそんな話です。

女性だけの劇団で演じられる女の役割、娘役とは?

このnoteを読んでいる奇特な人で、宝塚歌劇団が女性の出演者のみで構成される劇団であることを知らない人は少なそうだ。だが、時代性も踏まえて念のため基礎的なことを解説しておく。構成する劇団員は女性(生物学的。2021年段階。)に限定されている。

そのため、同劇団で上演される芝居・ショーの演目で演じられるすべての性を女性が演じ、その男性役を男役、女性役を“娘役“という専任制が敷かれており、1つのカンパニー内で現実的な生物学的・あるいは本人の性自認とは別の「仮想ジェンダー」が設定されている。

で、この「女性を演じる役割」の専任者がどうして“娘役“と呼ばれるのかという問題やその処遇については、現代社会において常に新規ファンを中心に議論の的になっていることだ。

私の連載のこちらでも触れたかなと振り返ってみると

各組にそれぞれ「男役トップスター」「娘役(女)トップスター」が存在し、この役割を担うと一度決まったら、退団や異動を除いて何があろうと主演は固定制であることが最も大きな特徴だ。男役・娘役ともにこの「トップスター」をめざし、その候補や抜擢を配役などから占い一喜一憂するのがファンの「おつとめ」である。
中略
(あと、女役をなぜ“娘”役というのかという話もし始めたらファンとファンの仁義なき解釈戦争になるので「そういうもの」とスルーしてほしい)

華麗にスルーしていた…… だよね、人のメディアで炎上するわけにはいかないもんね…… ということで、今日は改めてここに立ち向かっていきます。

娘役の処遇、その扱いに向けられる批判

とはいえ上記連載記事で、娘役と女優の違いをさわりだけ解説しているので、そこは引用しておきたい。

このシステムは、宝塚が温泉街だったこと、また創設の1914年当時【女優】という概念が定着していなかったことに起因する。舞踊や唄を嗜むことは「子女の教養」として許されても、それを職業とすることが即ち【花街】、つまり性産業に通じる時代だった。
(中略)
小林翁は、温泉街の娯楽として「性」を除いて「家族で楽しめるもの」を作り出すことで、沿線開発を成し遂げようとしたという思惑があったのだ。
それが「性」とは切り離された「安全な場所」で「少女」たちが、今でいう“エンターテインメント”を披露する場の興り・宝塚少女歌劇だった。

ただ、この興りから「男役/娘役」の分化までは紆余曲折あった。上記のような理由から、むしろ劇団はもとより少女のアンサンブルを売り物にしていたところから端を発し、次第に観客の側から―異性愛を禁じられた女学生を中心に―男性を演じるスターへの熱狂が“男役“という役割を作って言ったものなのだそうで、そもそも最初は劇団側は「男装の麗人」という存在も訝しがっていたということらしい。この辺の紆余曲折はマジで面白いので、ぜひ川崎賢子氏の『宝塚 消費社会のスペクタクル』を読んでください。

とりあえず押さえてもらいたいのは

・男役という存在が観客のニーズ発信で熱狂する対象に作り上げられていったこと
・その一方で女性を演じる役割を“娘役“と呼ぶのは性産業との訣別であること(女子の娯楽である前提)

という2点。「女」に対する呼称が「娘」というのは、現代的価値観から照らすとそれだけで炎上案件なのは重々理解しているが、情勢を鑑みてまあ落ち着いてほしい。(というかそういう人嫌いなのでブラウザバックでさようならと言いたいところだけどグッと堪えて説明しますよ)

さらに、同著の中で川崎氏はこう言っている。

男役が「男」を再現・表象し、娘(女)役が「女」を表彰しているに違いないときめてかかる解読者から見ると、男性と異性愛とを理想化する陳腐な物語にすぎないものが、他のコードに照らされて精査の意味や、優劣の関係をつぎつぎにくつがえしていく。
(中略)
逆転は、女が男を演じる逆転、ジェンダーの逆転にとどまらない。複数の序列、複数の禁則、その諸コードの無限の逆転である。その逆転につぐ逆転に陶酔して現実を忘れるファン、宝塚の諸コードが構成する罠のリアリティの中でしか生きられないファンが、生み出される。

私はこの川崎氏の表現に強く共感を持っているので、結論を先に言ってしまったようなものだが、この3点を踏まえて現在の娘役が置かれる処遇や、その扱いに対する批判と、それに対する私の考えをまとめることとする。

※個人的には1項目の「異性愛が抑圧された環境に依る男装の麗人への熱狂」というのは、その状況を想像だにし得ないことであって理解をしても共感がしがたく、同著を読んだ上で共感を抱いた人の意見を聞いてみたいという気持ちがあります。よかったらツイにDMください。

1) スターシステムと作品

処遇について第一に挙げられる男役と娘役の格差としては、同じ「トップスター」というスターシステムの中でも、娘役トップスターは「男役トップスターの相手役」という位置付けに置かれる。

上演作品においても、基本的に戦後ほとんどの上演作品において物語の主役は男役トップスターであり、娘役が主役であった例は数えるほどしかない。まず、複数主演的な扱いとして上演されたのが『ベルサイユのばら』。1974年の初演では、原作に準拠した形でマリーアントワネットが男装の麗人・オスカルに拮抗するヒロインとして描かれたため、その恋人役のフェルゼンを大滝子さん、もう1人のヒロイン・オスカル役の榛名由梨さんと並ぶ形で、ダブルトップに対峙する当時の娘役トップスター・初風諄さんによって演じられれ、王妃マリーは圧倒的な娘役スターの役どころとして定着した最初の演目だったと。

だが、その後娘役が圧倒的主役として君臨する演目は長らく登場しない。奔放でたくましいヒロイン・スカーレットオハラが主人公である『風と共に去りぬ』も、そのスカーレットを男役スターが演じたり、レットバトラーが主役に潤色されたものとなる。タイトルロールがヒロインの名前を冠する木原敏江氏原作の『紫子』も、紫子役を主演男役が女役と2役演じる。他にも例はあるだろうが、極め付けはタイトルロールにヒロインの名前を冠しておきながら、物語の主人公は彼女を誘う「死」であるという『エリザベート』。

この辺りで、宝塚ファンの間では「娘役トップとは男役トップスターの相手役である」というような印象は決定的な“古の慣習“となった。

その後、名実ともに「娘役スター完全ヒロイン」と謳える作品の登場は、月組娘役トップスター・愛希れいかさん主演の2018年月組バウホール公演『愛聖女-Sante♡d’Amour-』まで長らく待たれることになる。この異例とも言える娘役トップスター主演作品の上演とそれに対する熱狂に宝塚ファンは湧いたし、私も大変喜んでライビュまで行った人間の一人だ。

だが、このことは「彼女のように娘役スター主演作品を上演すべき」「そもそも男役・娘役という“男尊女卑“なしくみが時代錯誤」という声を大きくする1つの契機にもなったように実感している。もちろん、ここから先に私の意見がこの作品の上演の是非を問うものでは断じてないし、この作品自体の素晴らしさ、愛希さんがこれを任されるだけのスターであるというそのこと自体は一切否定しないし、ポジティブに支持している。

が、彼女の人気や実力が「娘役という範疇を超えている」というような称賛が寄せられた。

その声は称賛なのか? いや、これは称賛ではなくむしろ侮辱ではないか……

私はそんなふうに常々非常に気持ち悪さを感じていながら、完全に論破できずにいたのだった。

2) ファンクラブの仕組み、男役との人気の格差

これまた当noteの読者には説明不要の項目にも思えるけれども、宝塚歌劇団には宝塚歌劇団本体ではなく「生徒(出演者)」が運営するファンクラブというものが存在する。この「ファンクラブ(通称・会)」の説明は、恩師の著書『宝塚ファンの社会学』から引用定義しておきたい。

本書が扱うファンクラブは、これまでテレビや雑誌などで何度も紹介されたことがある“奇異な“行動をとる団体ということになるが、これは生徒個人を応援するために作られたファンクラブであり、さらに重要なことは、その生徒名でチケットをとる権利、楽屋入りや出の手伝いをする権利、劇場前に人垣(ガード)を作り権利を認められている「登録済みのファンクラブ」ということである。

もうw ちょこちょこM本節が効いてて笑っちゃうのだけどww(だいすき) 要は「劇団が直接運営してるのではないが、登録が必要なファンクラブがあるよ」ということである。他方、登録されていない“有志の集まり“も許可されている。

前置きが長くなったけれど、この「ファンクラブ」の扱いが“娘役“に関してはどう運用されているかということ。これがごく頻繁に、1)でも触れた「男役/娘役の格差」の実態的な例として扱われることがある。

ファンクラブがどのように「登録」されるかと言うことに関しては、公に明かされてはいない。というか、この分野は宝塚あるあるの「知っていても、また周知の事実だとしても明言してはいけないこと」になるので名言は避けるのだけど、「一定のファンが集まってファンクラブとして運営すべきであるという生徒個人の判断」に至った時、劇団に登録する仕組みとなっています。よくわかんない人は宮本先生の本、54ページの左の方を読んでね。あと、ファンクラブが何をする人たちなのかも同著の同じらへんを読んでください。

で、そうすると必然的に…というか、上記のような理由で常識として語られている宝塚ファンの大前提がある。

“娘役はトップにならないと会があげられない(ファンクラブ登録ができない)“

私も全部を追えたわけではないし、噂では〇〇さんはいついつから会が上がってた…一回閉じて就任時期に…(転向生徒などは特に)とかあるけれども、基本的にはこの認識で合ってると思います。

これがまた、一部のファンの「娘役に対する抑圧である!!!!」と言うような批判の火種になることがまま……、もとい、最近では超〜〜〜よくある。

ファンにとっての“娘役“とは何なのか

現状“娘役“というスターシステムに寄せられている「現代的」な皆さんの批判をまとめるだけで4,500字も費やしてしまった。本当に辟易しています。

が、もうここまで読んだ人には忘れられているのではないかと思われる、私が抱く「娘役さんに対するクソデカ感情」を説明するには、すべて必要な現代の吐きそうな前提である。

ここからは、すべて私のそれに対するアンサーであって、もしかしたらそれは「現代的に不適切である」と言われるかもしれない。が、私にとっては古いと言われようが間違っていると言われようが生きてきたすべてであり、結論から先にいうと、だから宝塚の娘役という美しさはトラディショナルな完成形としてあり続けてほしいと思っている。と、いう話。

1) 常に一人に絞れない憧れ、思慕、理想

初めて心を奪われた娘役さんは、10歳の時。NHK BSで放送されていた十数年前の作品『青き薔薇の軍神』のアンジェリク役の遥くららさん。真っ白なネグリジェドレス(確か)を見に纏い、フィリップ役の麻実れいさんから怒号をぶつけられているシーンだった。アンジェリクは戦地のフィリップにどれだけ便りを出しても返事がないもので自分が危篤だと嘘の手紙を出し、動転したフィリップは前線から慌てて帰還したが、それが気を引くための嘘だと発覚し激昂。と同時に、彼はそれだけアンジェリクのことを深く愛してしまっているということに気づくというシーンだった。

まあまあ命や戦況に関わる嘘をついておきながら、そんなことよりも配偶者(フィリップ)の自分に対する感情の芽生えにときめくという一般的には成立し難いシーンを、10年以上のタイムラグを感じさせない普遍的なかわいらしさと色気で演じた遥くららさんに、私は一瞬で憧れてしまった。

その後、リアルタイムから少し遅れながらもたくさんの作品をテレビ放送で観劇し、憧れの対象は増えていった。

純名里沙さん、花總まりさん、白城あやかさん、風花舞さん。

これはそれぞれ確か見た順番なのだけど、エデンの東、あかねさす紫の花、剣と恋と虹と、チェーザレボルジア……。この頃には「好きな男役スター」はうっすら某氏に固まっていたのに、大好きなヒロインは選べなかった。

その後、冒頭で触れたように次第に星組に、そして白城あやかさんに憧れが絞られていくのだけれど、それでも大好きな娘役さんは誰?と言われても「男役の贔屓」ほどに絞れないまま時が過ぎていく。

『サザンクロスレビュー』で、その後一番熱狂した贔屓・瀬奈じゅんさんに出会った時も、娘役は詩乃優花さんや渚あきさんに目移りしていたし。

『BLUE・MOON・BLUE』では、美貌のヒロイン檀れいさんだけでなく、まだまだ下級生の白羽ゆりさんのキュートな笑顔に一瞬で釘付けになってしまった。

花總まりさんを大尊敬していた私だが、当時すべてのヒロイン作の傍には、その後贔屓となる星組トップスター稔幸さんの相手役になる星奈優里さんがいて、包容力がありながらコケットな色気を発揮していたし、高貴な雰囲気の紺野まひるさんにも憧れていた。

頭のてっぺんから爪先まで大好きで、こんな女性になりたいと憧れた白城あやかさんの傍には、堂々と真逆の美しさを放つ月影瞳さんがいた。

憧れの花總さんが組替えして初代トップに君臨した宙組でも、遠野あすかさんという新しいミューズに出会うことになる。自分の中の“男の部分“が反応したかも?という初めての感情を抱いた、美羽あさひさんに出会ったのも同じ頃だった。

こんなふうに、男役スターのファン歴としては高嶺ふぶきさん→稔幸さん→瀬奈じゅんさん→紅ゆずるさんというシンプルな遍歴で語れるのだけれど、憧れた娘役さんを選べと言われると、若葉マーク時代からたった5年くらいの遍歴でこのとっ散らかり具合なわけである。

直近で言うと、贔屓である紅ゆずるさんの相手役を務めてくれた綺咲愛里さんが最愛の娘役スターであったわけだが、彼女が「紅さんの相手役を全うくれたから好き」と言う男役本意の理由では当然ない。出会いから遡れば、元々『REON‼︎Ⅱ』博多座公演の下手1列目から見た時から「なんて可愛い人がこの世にいるんだろう」と稲妻が走ったのを今でも覚えている。だが、その当時の私は宝塚受験に落ちてすぐ、娘役として憧れたすべてを兼ね備えている!と夢咲ねね氏に“心の全面降伏“を誓ってたばかりであった。その忠誠心(?)から彼女に鞍替えてお手紙を書いたりアピールしたりなどすることなど到底できず、心密かに「可愛いなあ…えへへ」と思っているうちに、贔屓・紅氏の相手役に収まってくれてしまったわけである。

そうして綺咲さんはトップに就任し、“会“が立ち上がるわけだけど、そんなタイミングで「昔から好きでした」などと知ったような口を叩く気にもなれなかったため、彼女の会に入ると言う選択肢がないまま見送り、今に至る。男役ファンとして、贔屓の相手役を100%全力で愛せることは当たり前ではないと過去の経験から知っている身として、彼女の現役中に「あなたが相手役だと知った時、心から嬉しかった。本当はずっと好きだった。何を言われてもあなたは私の1番のヒロインだ」と伝えるのを諦めてしまったことは最大の後悔である。

今更ですが、ずっと好きでした。まあ、これは最終的に実は本人に言えたというオチがついているが(ドヤァ)

2) “人気の格差“の正体は“無数の憧れ“

そうやって「そうこうしている間に会が立ち上がってしまって今更思いを伝えられない」とか「春風のように通り過ぎてしまった」娘役さんは吐きそうなほどたくさんいる。

前述の綺咲愛里さんの後にたどり着いたのは、ちょうど先月の今日をもって卒業した華優希さんだ。彼女はまさに、春風のように通り過ぎてしまった。京都の春のように一瞬の儚い恋だった。申し訳ないとすら思う。

他にも、月組娘役トップスターに内定している海乃美月さん、元星組娘役ホープだった星蘭ひとみさん、星組ホープの水乃ゆりさん、雪組ホープの夢白あやさんと、可愛くて可愛くて、応援したい人はいくらでもいる。ここが重要なのだけど、私個人としては男役さんの注目スターよりも、好きな娘役スターの方が圧倒的に多いわけだ。

そうして、やっと冒頭に戻るんだけど、そんなに愛している有沙瞳さんも、とてもポジティブな意味でこのうちの大切な一人なのである。

彼女は前述の綺咲愛里さんがトップ就任と同時に星組に着任してくれ、娘役スターの2番手格として存在感を示してくれた人だった。どんどん綺麗に魅力的になっていく彼女を見ながら、綺咲さんに出会った時と同じく、「あなただけが好きです」と言えなかった。綺咲さんに対する感情の手前があったからである。

男役さんの贔屓に出会う時はいつも「その人が飛び込んでくる」ことが多いのに、娘役さんに対しては「あなただけ」と飛び込むことができない。

これは、男尊女卑なんてしょうもないことではなく、先述の宝塚の出自である「無理矢理創出された擬似恋愛の対象」である男役と、その疑似恋愛の投影元である娘役の性質の違いなんだろうなと今のところ整理している。

疑似恋愛の投影元といっても、単に、たとえば少女漫画のヒロインのように自己投影対象だけに限らないところが娘役スターの多様性だと思っている。

自分がなりたい完璧な理想のミューズを求める人もいる。私にとってのそれは、綺咲愛里さんだったり、海乃美月さんだ。前述であれば水乃ゆりちゃんも夢白あやちゃんもここのジャンルである。

少女の頃に夢見たおとぎ話のお姫様を思い描けば、華優希さん1択である。花總まりさんに憧れた私の細胞を叩き起こしてくれたのは、華ちゃんの優しい声と瞳だった。

また、自分は心体ともに女性自認の異性愛者だけれども、自分の中に少しある“男“の部分が反応することがあって、その対象は有沙瞳さんである。OGでいうと美羽さんに対する憧れが近いと個人的には思っている。彼女のその持ち味は、そういう意味でも前述の綺咲さんと被らないところが大好きで、だからこそどちらかを選ぶことができなかった

ファンが思い描く“理想のヒロイン“に対し、何を求めるかによって三者三様、十人十色の答えがあるのが娘役スターだ。だから、意見が割れる。さらには、上記の私のように、自分1人の人格の中に幾パターンもの「ヒロイン像」を求めるため、1人に選ぶことができない。

そのために、男役に比べてファンの実数が集まらず、会が上がるにいたらない。

それがすなわち、興行の安定にも直結するものだから、主演舞台の企画が通りづらい。

もうね、結論これです。この5文だけでも覚えて帰ってください。

会が上がらないことも、主演作品が難しいことも、全然男尊女卑ではないんです。

むしろ、娘役ちゃんの圧倒的スターが生まれないことは、私たちファンの心の多様性の鏡なのじゃないかと思う。

1つ気がかりなのは、ファンレターやお見送り、お茶飲みの数など、娘役ちゃんは男役に比べて規模が小さかったりして自信をなくすこともあるかもしれない。それは困る。辛い。

でも、それってあなたの責任でもないし、娘役が軽んじられているということでは全然ない。

宝塚ファンは男役ファンで成り立ってるなんてことは都市伝説で、の9割9分9厘は娘役ちゃんが大好きであって、選べなくて、全員にクソデカ感情を抱いていて、あなたたち1人1人が好きで好きでたまらないのだということを全員に伝えたい。もうね、この数行フリー素材で配ってもいいので娘役ちゃんみんなに伝えたいです。(スーパー早口)

“実力“のある娘役は“娘役を超えている“?

ちょっと長くなったのでめんどくさくなった、章立てしておいてなんだけど、一言で済ませていいですか。

「“実力“のある娘役は“娘役を超えていません“!バーーーカ!」

以上です。すべて先述のとおり。

歌やダンスなどの香盤を基準とした実力があろうがなかろうが、宝塚ファンが憧れる娘役の答えはその人の中にあるものです。もちろん実力がある子に憧れる人にとってはその人がヒロインだし、それらを持たなくても憧れる人にとってはその人がミューズです。

女の子の数だけ、いや、人の数だけヒロインやミューズがいる。
逆に、そこに性差はないと私は思っていて。

生物学的女性が“男“も演じることは変えられない装置の中で、その別性質を演じる必要に迫られて生まれた「娘役」という役割。

だから娘役は、どこまでも多様で、美しいもので、1つに絞られない。

だからマスの力を持つことができないかもしれないけど…
それでも、いや、だから、娘役が好きなんだ!

****

今日が有沙瞳ちゃんの誕生日でクソデカ感情が爆発したことが発端と書きましたが、同時に昨日(2021年8月3日)に愛月ひかるちゃんが次公演で卒業することを発表しました。

同じ年に宝塚音楽学校を受験したという以上に直接的に深い関わりがあるわけではないですが、彼女は元々自分と同じく娘役志望の可愛いお嬢さんだったことはよく知っていて。

ただ、そんな彼女は今2021年現在、宝塚歌劇団にとってかけがえのない男役スターとして立場を確立しているわけです。

それって、受験生時代に娘役さんに憧れて、たくさんのミューズに出会って悔しい思いをして、そこには手が届かなくても自分の居場所を目指して一生懸命手を伸ばしたから掴めた成果なのかなと思ったりしました。

心から尊敬する素晴らしい宝塚のスターだと思ってます。

あなたの背中に自分の夢を託していたことを許してください。

最後まで応援してるからね。

そして、次公演もまたこの道を歩き続けることを選んでくれた有沙瞳さんへ。

年次とか実力とか実績とか、そんなくだらない声はどうでもいい。

あなたは私が男なら間違いなくさらって逃げたいくらい可愛い人。

それだけで、私にとってはかけがえのない娘役トップオブトップスターです。

あなたと、そしてあなた以外の同じように「会」の上がらない中で日々頑張るすべての娘役のお嬢さんたちが、自分の納得いく道を進めますように。

全員を、中でも特にあなたを、愛しています。

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