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引越★観劇記★『アンナ・カレーニナ』“残っていく作品”と美と正しさの中で

当noteはしばらくアタイの旧住所から過去記事を転送していくよ!

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前回記事は想像以上に反響があり、素直にうれしかったです! 読んでくださった方、ありがとうございました(__) ほんとうの言いたいことは「あーちゃんの可愛さに早く世界がひれふせばいいのに」という暴論なんですけど、どんなものであれ書いたものが読んでいただけるのはありがたいことだと初心に戻りました。

 (まだの方はぜひに↓)

 1月は月星ファンには大忙し!ということで今日も徒然と失礼します。月組バウホール公演『アンナ・カレーニナ』千穐楽ライブビューイングに行ってきましたので、その読後感を残させていただきます☾ 

あくまでロシア文学門外漢の感想ですから、なにとぞおてやわらかに…

『アンナ・カレーニナ』とは?

ロシアの文豪トルストイの小説で『戦争と平和』に並ぶ代表作です。世界中で幾度となく映画化や舞台化されており、読んだことはなくともタイトルは知っているという人が多いのではないでしょうか? 

19世紀後半のロシア。輝かしい未来を約束された青年貴族将校ヴィロンスキーは、社交界の華と謳われるアンナ・カレーニナに出会い心を奪われる。政府高官カレーニンの貞淑な妻として、何不自由無い暮らしをしていたアンナもまた、ヴィロンスキーの激しく真剣な求愛を受け、内に秘めていたもう一人の自分が目覚めて行くのを感じていた。二人の恋の噂は瞬く間に社交界に広がり、世間体を重んじる厳粛なカレーニンは妻の不貞を咎める。しかしヴィロンスキーとアンナにとって、もはや、この恋を失って生きていくことは不可能だった。愛に全てを捧げ、ただ愛に生きようとした二人が、その恋の終着駅で見つけたものは…。(公演解説ページより一部抜粋)

調べてみると初版は1877年だそうで「意外と最近やな」と思う反面、この19世紀後半から21世紀とは政治的にも産業的にも人文科学的にものの価値が大きく変化した激動の時代ですから、それでも約150年もあいだ人に読まれるってなんてすごいんだろうと驚きました。特に現代出版業に携わる人間としては、今、どんどん情報の賞味期限が縮まっていると感じるので、変わらず関心を寄せられる息の長い作品にはとても興味を引かれます。

トルストイの言いたかったことと150年後のわたしたち

わたしはトルストイと話したことがないし研究対象として専門にしてこなかったので彼の真意はわかりませんが…。確か彼はリアリズム作家だったと記憶しているので、彼はアンナという1人の愚かで悲しい女の生き様を媒体に、コンスチャとの対比で神を信じることの正しさを描こうとしたのだと理解しています。だから、他のいろんな時代のエビータだの椿姫だの白鳥麗子でございますだの(世代)「女性主人公のタイトルロール作品」は女一代記的(わたしはこれを【朝ドラ型】と呼んでるんですけど)なのに対し、タイトルを名前で飾るアンナは実に力ない存在に映ります。

これ、まあこじつけの独り言だと思ってゆるく聞いてもらいたいんですけど、同じ主人公が翻弄される系でも『ジゼル』とか『パキータ』に比べてさらに力なく感じるのは『アンナ・カレーニナ』って苗字まで明かされてしまっているのが悲しさを強調しているように思うんです。

今回上演中にカレーニン伯爵(月城かなとさん)のセリフで

カレーニン伯爵夫人だ

という応答があったし、確か原作も「わたしはあなたの何なのか」の問いに対し「政府高官の妻で僕の名を名乗るものだ」と返されていたと思うんだけど、その無力さをタイトルが象徴しているなと。

よってこの小説は、トルストイ自身の主題はアンナの中にはなく、アンナという現象から正しい道を啓示するメディアなのだなと理解しています。

そして、150年のときが経ち、現在。

果たしてそういう主題の受け取り方をする人は何人いるか。

アンナの身勝手さに怒る人もいれば、その一生を激しく美しいと感じる人もいるでしょう。旧弊な貴族社会に現代の閉塞感を重ねあわせ、共感する人もいるかもしれない。

門外漢過ぎて恥ずかしいのでこの辺にしておきますが…。今回改めてこの作品に触れてみて、100年以上継がれる作品にとって大切なのは主題以外のところにあるのだなということでした。「何が正しいか」は時代によって変わり、ゴールなどないからです。

物語作品の場合、主題以外の最も大切なものとは間違いなく繊細で緻密な書き込み1点に尽きると思います。今作もアンナをはじめとする登場人物の逡巡がしつこいくらいに描かれていて、時代も人種も文化も違うわたしたちなのに、心の動きやありようが手に取るようにわかります。

わたしはシェイクスピアにしても紫式部にしても上記と同じようなことを学んだのですが、筆者がすべての登場人物について緻密に心の動きを描いていることと、すべての登場人物(人種やジェンダー、職業)に差別や分け隔てない感性であることは必ずしも同義ではありません。トルストイは【所有から解き放たれたい女のみずみずしい感性】を描けているからといって、【女を夫や社会の所有から解き放たれた存在】として尊重しているわけではない。ただ、今もっといえば、むしろ自分の信条と違うところを手に取るように細かく描けるから素晴らしい書き手なわけだなと気づきます。これはブンヒツ業をやっている人間としては、とても刺さる気づきでした。

ちなみに最近は、この【自分の信条と違うところ】を描く力どころか、受け取る力すら退化しているように思えてなりません。

近頃よく文学やエンターテインメントに対して、「不適切だからタイトルを変えろ」だの「キャラクターの描かれ方が旧弊で差別的だ」などと批判を目にします。もちろん中には制作や作家自身が安易だったり考えたらずなために避けられない批判がほとんどですが、批判は批判だけならまだしも、それで本当に内容やタイトルが変わってしまう世の中はなんと恐ろしいことか…!

今のわたしたちの【正しい】なんて、もし戦争や大恐慌や大飢饉が起きればひっくりかえってしまうのに。

冒頭に戻って暴論をいえば、今なお遺され続けている作品なんて大体不道徳なんです。

そして、物語作品なんて所詮【ウソ】なわけで、「作家が自分の正義以外の行動や心のうちを代わりに観察してくれている」貴重な資料として見るのが作法なのではないでしょうか。仮に旧弊だとしても「けしからんのでやめさせろ」ではなく「こいつは旧弊だな」でいいじゃないか。つくり手もマスメディア(大体マスコミが話をややこしくしてる)も「そういう受けとり方をされるんだな」でいい。今、この手の人たちの手にかかれば、そのうちアンナのことも「子どもがありながら若い男と何度も駆け落ちするなんてふしだらで不道徳な女の話を上演するな」などと言われ始めそう。

そんな統制目前!? な窮屈な世の中に慣れ始めてきたわたしに【150年前も今も、明らかに間違っている無様な女】の美しさを、タカラヅカというエンターテインメントの中で提示してもらえたことは、心強い大切な経験になりました。

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女性作家と女性劇団による味わい深いアンナカレーニナ

やっと今回の【植田景子さん×美弥るりかさん・海乃美月さん版】の『アンナ・カレーニナ』の話を…

前項の主題の話からいくと、植田さんがトルストイが生み出した登場人物を使って表現したかったのは、恐らくトルストイとまったく逆の【愚かに生きることの美しさとうらやましさ】だと思います。原作の安定と凋落の対比構造を、登場人物それぞれの愛の形を乱立させる構造に変え、一貫して登場人物は愛することはしあわせなのかを問い続けて物語が進行します。

特にカレーニン伯爵の描かれ方、特にアンナ(海乃美月さん)への愛情の芽生えがみずみずしく優しいために、アンナの不貞はアンナとカレーニン伯爵自身にとって「これでよかったんだろうな」とすら思えてしまう。これは、わたしは原作で受けなかった感想でした。愛というより執着、彼の赦しも愛ゆえというよりは信仰と責任ゆえという感じだった。

また、これは賛否が分かれるかもしれないけれど、ヴィロンスキー(美弥るりかさん)とアンナの心が擦れ違っていくようすを、時間的にも描写的にも大幅にカットしていたことも、ふたりの無様さや愚かさを軽減しているように思いました。

女性・男性というラベル貼りはしたくないけれど、植田景子先生は特に大衆の女性が好みやすいロマンチックな世界観が持ち味だと思っています。正直わたしは【宝塚のロマン派】くらいに思っているので、彼自身の作品の中では比較的技巧的ではあるがリアリズムが基本となっているトルストイ文学とここまで親和性が高いのか!というのは新鮮で楽しい気持ちでした。

彼女の目というフィルターを通すことで、美しい女性たちだけで構成される劇団をインスタレーションにすることが叶ったと思うくらいで、しかもその今のタカラヅカの中でも最も硬質な美しさの美弥るりかさん・海乃美月さん・月城かなとさんが演じることで、作品・作家・演者が三位一体となっていたとも感じました。

彼女が美しい3人を通して描いた【愚かな愛の輝き】は、原作の主題から大きく逸れているけれども、こうやって時代と共に主題を変えて楽しむことができるのが緻密な当作品の醍醐味だとしたら、わたしはそれを味わい方として間違っているとは思いません。こうやってエンターテインメントとして文学作品に触れ、原作を知り世界が広がるチャンスになるのなら、前項で申し上げた【受け取る力】を育てるものになると思うからです。

 

また、タカラヅカは結局システムが主力商品で、作品の文学性は観客にとっても興行にとってもほとんど重要ではありません。ですが、主演の美弥るりかさんが2001年の初演時に客席でこの作品に憧れて、2度もこの作品に携わるようになったというその1点を見ても、文学性の高い重厚な作品を、主題を捻じ曲げてでも上演する意味を感じます。彼女のような誠実でありながら遊びと粋を兼ね備えた芝居巧者がタカラヅカを選んでくれるには、それが唯一の王道だからです。興行を気にして大味のハリウッド的作品ばかりで濃い芝居がなくなれば、芝居巧者は得られません。生物学的女性だけで物語を成立させなければならないタカラヅカには、物語世界を【受け取る力】に優れた芝居巧者が絶対に必要なのです。

美弥るりかという財産を射止めて入団させたというだけで植田先生もトルストイもホントにありがとう!!(情緒不安定)

 

最後に……★ 海乃美月さんのアンナは、これまで映画やタカラヅカ内外の舞台で見たどのアンナより一番アンナだ‼と思いました(語彙力)

冷たく神経質な美しさに対してアンバランスな短い前髪、キラキラした瞳、自分を律して押さえこんできた女というよりも、自分の中に何が棲んでいるかまだ知らない女という狂気じみた感じが、もうめちゃくちゃアンナでした。書いてて涙出てくるくらいうみちゃんほんと最高だった。届け本人に。

あ、そう、このうみアンナの前髪は一般のわたしたちにも参考になることと彼女の覚悟とかプライドとかが詰まっていて、言いたいことがいっぱいあるので、近いうちにヘア記事にまとめたいです。

とりとめがなくなってしまった。そしてホントはわたしつきしろさんファンなんだけどスルーしちゃった。まあいいか。

ブルーレイも出るらしいので、とても楽しみ!

 

ご静聴ありがとうございました。

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